ハンス・シベリウスの研修(上)


1

 ハンス・シベリウスはかつては穴掘り士であり、今は潜行士である。
 彼の生まれは北竜の巣の隣にある北方の村だった。一族は代々の穴掘り職人で、百年前から始められたクロスボー山脈のトンネル工事の為に、この村へとやってきた。祖父も父も名うてのトンネル掘りであり、彼自身も学生だった内から、自身が父と同じ会社に就職するのだなあと考えていた。
 そして、その予想が裏返ることもなく、ハンスは流れのままにクロスボー山脈のトンネル工事会社へと入社した。祖父や父の才を継いだのか、ハンスの腕前は新人にしては随一を誇っており、「特別やりたいことではないが、きっとこれが自分の天職なんだ」と、彼は思っていた。
 だが、それから半年した後。その考えは、抉られた大地のようにボロボロになっていた。
 きっかけは、第六回穴掘り祭にて同期の男があるモノを掘りあてたことにある。それこそが、後にドワーフの鍛冶場と呼ばれることになる、世界最新のダンジョンだった。
 辺鄙で、穴を掘るくらいしか珍しいことがない北方の村にとって、ソレの出現は娯楽にも勝るぐらいの興奮を引き起こすものだった。勿論、トンネルを掘るくらいしかやることがなかったハンスにとっても、ダンジョンという存在は自分を変化させる起爆剤となったのである。
 父の反対を押し切って、あれよあれよという間に仕事を辞め、気が付けばハンスは潜行士となるべく中央にある学院の門を叩いていた。そして、あれよあれよという間に技術を習得していき、気が付けば彼は潜行士となって、自身の生まれた北の大地へと帰ってきた。
 それが今日のこと。
 穴を掘る人だったハンス・シベリウスは、今度は穴に潜る人となってこの北方の村へと足を踏み入れたのであった。
「ふうん。ちょっと変わったな」
 両親譲りの薄茶色の瞳で辺りを見回しながら、ハンスは呟く。たった二年。されど二年。知らぬ間に変化した故郷というものは、なかなか感慨深いものがある。
 ハンスはが今いる場所は、中心街にある広場だった。中央には北竜を象った石造が置かれ、その口元には百年間消えたことがないという北竜の炎が変わらず灯っている。真実は定かではないが、クロスボー火口からその火種は取られたと言われていた。それを肯定するかのように、今日のような雪の日でも、北竜の口はメラメラと燃えていた。
 本日は八月二日。太陽の月、夏の季節。つまるところ、暑い時期である。ここ北方の村でもそれはまかり通っている事実であり――事実の筈であったものの、そもそも元がとてつもなく寒ければまるで関係なく、現に今、真昼間から村では雪が降っていた。
 そもそも北端の大地は一年中雪が降ることで有名である。ここは一般人の想像を簡単に超えるほど、摩訶不思議地域なのであったのだ。この北方の村、一年中の降雪を売りにしているのは伊達ではない。クロスボー火口を守護するという北竜の仕事だってそのおかげで存在しているのだし、それはハンスも承知のことだった。忘れずに持ってきた厚手の上着が役に立って良かったとばかりに、服にかかった雪を払う。
 彼の実家があるのは南西の区域であるが、そちらに足が向くことはなかった。そもそも家族とは二年前から連絡を取っていない。反対を押し切り、勝手に家を飛び出していったのだ。学院に入ると言ってはいたものの、しばらくして届いた父からの手紙はいわゆる絶縁状だった。
 そんな現状なのだ。わがままを言ったのはそもそもハンスの方であったし、どの面を下げて実家に帰れるというのか。元々、生活を実家に頼るつもりもなかった。母くらいには顔を見せにいこうと考えてはいるが、頼るというのは今更な話だった。
 それではハンスがどこに向かっているのがというと、学院――正確には、国だが――が用意した、潜行士の為の宿舎である。学院には潜行士になるための科があるのだから、当然、卒業生の手助けをしてくれる仕組みも存在している。その一つが、この宿舎だった。卒業後、新人である半年間はここを使うことができる。最も、それ以降生活の保障はされないので、半年の間に住処と生活費のあてを見つけなければならないのだが。
「まあ、それは落ち着いてからで」
 生活に慣れてからでないと、暇など作れやしない。
 そんなこんなで実家とは逆の南東地区へと進んでいたハンスは、目的の場所へとようやく辿り着いた。「白兎の牙」と名付けられたそここそ、羽ばたき始めたばかりの潜行士たちが集まる場所である。兎というのが全くもって新人らしい名前だった。いつかは首を一撃で刈るような牙を持ちたい、とハンスは思う。
 入口の扉の横には、建物の案内が書かれた看板があった。それによれば、一階は喫茶店や酒場のようなものになっているらしい。宿の下に食処があるというのはありがたい話だった。挨拶がてら温かいものでも飲もうと、ハンスは扉の取ってを掴む。カランカラン、と扉についていた鐘が鳴った。北竜が生んだ知恵によって、この雪空の下でも凍り付いていない。
 ――そうして、店の中にいたのは幼女だった。
 どこからどうみても幼女だった。まぎれもなく幼女だった。カウンター奥の椅子で本を読んでいた彼女は、笑顔をハンスへと向けながら、「いらっしゃいませ」と歓迎した。
「……」
 店の雰囲気は良いものであった。内装も凝ってはないものの丁寧な造りで、単純ながらも心地よい。幸か不幸か、客は一人もおらず、店内は静かで、グツグツと湯が煮立つ音だけがただ響いている。いい店だなあ、とハンスは素直にそんな感想を抱いた。
 しかし、何故に幼女がカウンターに。まあ北方の村の特色を考えれば有りえないことではないが、それにしたって予想外だと思いながら、ハンスはとりあえず動揺したままカウンター席に着いた。
「はじめまして、ですよね」
「あ、はい。はじめまして、です。今日からこの白兎の牙にお世話になる者なんですけど」
「ああ、お話は伺ってます! あたしはここの管理を任されているエレンです。確認のためにお名前、よろしいですか?」
「ハンスです。ハンス・シベリウス」
「はい、確かに。ハンス・シベリウスさん、ですね。ようこそ白兎の牙へ。外は寒かったでしょう? 温かいお茶でも入れますね」
 遠くを見るような眼を向けてハンスの名前を確認すると、エレンと名乗った幼女は紅茶を入れる準備をし始めた。
 ハンスは呆けたように向かい側で作業をする彼女を眺める。白銀ともいえる淡い金髪と透き通るようなその白い肌は、北方の村ではよく見かける色だった。仕事中のためか、絹のように流れる長髪を馬の尻尾のように纏めている。手際良く動く手に合わせて、それもまた静かに揺れていた。
 ……それにしても、どう見たって幼女だよなあ。その容姿と仕事ぶりに見惚れつつも、彼の頭の中はそれに尽きない。
「はい、お待たせいたしました」
「あ、どうも」
 そうして出来上がった紅茶を飲む。渋みのある上質の茶は、雪で凍えていた身体の芯まで、溶かすように温めてくれた。店内の暖房と紅茶によって、先ほどまでの寒さも忘れられそうだった。思わずハンスの口から吐息が漏れた。
「あったまりました?」
「ええ、とても。美味しい紅茶ですね」
「ありがとうございます。友だちにお茶好きな人がいて、そのツテで安く分けてもらっているんですよ。紅茶詳しいんですか?」
「詳しいわけじゃないんですけど。母が好きなもので、子どもの頃からよく飲んでました」
「そうなんですか」
 他に誰もいないからなのか、エレンは自分の分の紅茶も用意し、カウンターの中で一息ついた。ハンスがそれをぼうっと眺めていると、照れくさそうに頬を赤らめながらエレンは訊かれてもいない問いに答えた。
「夕方まで休憩なんです。少し早いですけど、ハンスさんしかいないから」
 そういえば、と外の立て看板に書いてあった案内を思い出す。確かに営業時間は昼と夜の二部に分かれていた。夜はここで酒も飲めるらしい。
 エレンはいつの間にかカウンターから出て、出入り扉の外に掛けられていた札を裏返す。そこに記されていた「閉店」という文字が外に放たれた瞬間、ドア付近の明かりが一斉に小さくなった。それを見た、ハンスの頭に浮かんだものは驚きでなく、何とも言えない懐かしさだった。
「あれ、驚かせようと思ったのに」
 期待が外れた、といわんばかりに、口を尖らせるエレン。
「竜の鱗、ですよね。傘の内側に貼られているの」
「正解です。便利でしょう」
 これも北竜が生んだ生活の知恵の一つである。指定されたキーに反応して、鱗の反射率が変化しているのだ。純度の高い竜の鱗ならば光を反射させずに透明なることもできる。竜と人が共に暮らしているという、希有な土地だからこそ生まれた文化だった。当然、ハンスの実家にもあった。
 そうして、他愛もない雑談を続けることで、ハンスの中からようやく緊張が去っていった。北方の村ではこのような光景なんて、よくあるといえばよくあることだ。第一、学院のあった都心だってとても変わった場所であった。噂に名高い騎士や魔女を見たのは学院に入ってからが初めてだったが、北方出身のハンスにしてみれば彼らの方が異彩を放っていた。それに比べれば、幼女と二人っきりで紅茶を入れてもらうなんて、よくあることである。それが例え、言葉通りの意味でないとしても。
「そういえば、シベリウスっていいましたよね、名字」
「はい。そうですけど、それが何か?」
「いえ、あたしの友人にもシベリウスっていう人がいるんです。さっき言ってた紅茶好きの。たまにこの店にも来てくれるんですよ。まあ、友達っていっても年齢は全然離れているんですけどね」
 それを聞いたハンスは、もしやと思う。それが彼の頭に浮かびあがった人物ならば、年齢が離れているというのも当たり前だった。
「……それはもしかして、金色の髪と薄茶色の目をした、ちょっと恰幅のいい五十過ぎの年齢をしたドロテア・シベリウスという女性?」
「は? えっと……お知り合い、ですか?」
 目をしばたたかせながら、不思議そうな顔を向けるエレン。見た目相応の反応が、少しだけ可笑しいといえるだろう。
「知り合いというか……母です」
「……」
「……」
「本当?」
「本当です」
 先程とはうって変わって、瞳を閉じ、腕を組み、ウンウンと唸りながら、幼女はハンスに確認する。
「ってことは、ハンスさんはこの村の出身なんですか?」
「そうですけど。それがどうかしましたか?」
 エレンの額にうっすらと汗が浮かんでいるのは、けっしてハンスの気のせいではないだろう。それを肯定するかのように、彼女は目を泳がせながら最早答えを理解してしまった問いを口にした。
「……最初っから敬語だったし、何か変だなって思ってたんだけど――もしかして、気付いてます?」
「……気付いているというかなんというか、こっちがお世話になる身なので失礼はないようにしないと」それに、とハンスは続ける。「――目上の方に敬語使うのって普通じゃないですか? しかも初対面なんですし」


 ところで話が変わるが、竜という存在はとても希有な生命体である。五桁にも届く寿命を持ちながら、その精神が廃れることはない。いつまでも彼らは純真無垢、穢れのない存在なのだ。そして一番の特徴が、人間の文化の中に入り込んでいるというところにある。長寿生物は数あれど、そんなことをしているのは竜くらいのものだ。その中でも一番の例が、竜による航空交通産業である。
 また、この北方の村も人と竜が共存している珍しい場所なのであった。世界でも唯一といっていいくらい二つの関係が密接にくっついており、それぞれの存在が失われたら生活が成り立たなくなってしまう。
 例えば、中央広場から延びる二番通りに面して建っているこの村唯一の学院に勤めている講師の半分は竜であるし、そこから一キロメートルほど離れた場所にあるこの村唯一の病院に勤めている看護師の半分は竜である。百年前、この村が誕生した時からそれは何も変わっていない。二つの異なった種が共に作り育んでいったこの北方の村は、今もまた竜によって支えられている。
 ここには、そんな感じでここに当たり前のように竜が存在する訳で。
「――あー、つまんない。久しぶりのカモだったのに」
 いかに見た目が幼女であろうとも、ハンスの目の前にいる白兎の牙の管理人が竜であることは変えられない事実であった。
 生まれていた静寂は、一秒にも満たなかっただろう。エレンという名の少女は、先程までの様子が偽りだったかのように、口を尖らせてそう呟いた。
 猫を被っていたことは気付いていたが、それでも幼女の姿ですれた表情をされるのにはハンスも驚きである。先程までの太陽のような笑顔が、まるで嘘のようだった。……実際、嘘だったのだが。
「……いや、十分ビックリしましたけど。というか、それが素ですか」
「当分、遊べると思ったんだけどなあ。あーあ、しな作った自分がバカみたいです」
「いえいえ、お疲れさまでした。いつもこんなことしてるんですか?」
「新人が来た時には大抵。だってほら、何も知らない人からしてみれば、あたしなんてただの幼い女の子でしょう? そんな子供がここの管理人をしているっていうんだから、みんな目が点になっちゃうし。折角だから、思いっきり子供のマネしてからかおうかなって」
 それにこの仕事、結構ヒマなんです。そうエレンは語る。
「なるほど。……というか、不躾ですけど、エレンさんって今おいくつですか?」
 北方の村で生まれ育ったハンスにとって、ヒトの形をとった竜は決して珍しいものではなかったが、それでもこれほど幼い姿で現れている個体を見たのは初めてだった。
 ここでは、竜はヒトの形を取って生活している。だが、その姿というのは自由に選べるわけではないのだ。生まれ落ちてくる赤ん坊が何も選べないように、竜のヒト化も同じく何も決められない。ヒト形態時における性別も容姿も全て、本来の姿の影響を受ける。白い毛を持つ北竜がヒトとなった時、毛や肌が白くなるのもそのせいだった。そして、それは年齢についても同じである。竜年齢に比例した形でヒトの姿は現れる。百年の歳月が、ヒトの姿では一年の積み重ねで表現されるのだ。
 それ故に。
「あたしは今、九百九十九歳。人間に換算すれば、もうすぐ十歳ってところですね、まだ」
 エレンと名乗った竜の個体は、十にも満たぬヒトの器を持って顕現したのである。
「まあ、俺たちからすれば大分長生きですけど」
 ハンスが二十三歳なので、彼女とは九百年以上も生きた年月が違うのである。
「それはそうなんですけどねえ。というか、あたしたちと人を比べるのが、そもそもの間違いといえば間違いじゃないかなあ」
 それはまさしく真実だ。人間と竜の個体差を比較してもどうしようもない。例えば、ハンスには幼馴染の竜がいるが、初めて会った頃の彼女は人でいう十四歳くらいの姿をしていた。しかし、ハンスが村を出るからと最後に会った時も、まだ十四歳くらいの姿であった。その間、およそ八年の時間が経過していた訳だが、竜である幼馴染からしてみれば、主観的には一年にも満たないことになる。
 くだらない昔話もよく覚えていたしなあ、とハンスは幼馴染のことを思い出した。連絡をしていないので、ハンスがこの村に帰ってきたことは知らないだろう。
「それにしても、ドロテアの息子かあ。まだ二年くらいの付き合いですけど、子供がいるなんて知らなかったな。言われてみれば似てるかも、あなたたち」
「家の反対を押し切って潜行士になったので、縁は切られちゃってますけどね。だから言わなかったんじゃないですか」
「あ、だから家があるのに、ウチに来たんですか」
「まあ、そういうことです。実家に帰るつもりもないし……母に会っても俺のことは言わないでもらえますか?」
「それは構わないですけど。折角ここに帰ってきたんだから、顔くらいは出しにいった方がいいんじゃないかしら?」
「そのつもりではいます」
 それがいいと肯いて、エレンは既に空となった二つのカップを片付ける。手慣れたもので、ハンスが手伝う間もなかった。あっという間に汚れを落とされ、元の位置へとしまわれていく。そうして一段落ついた彼女は、髪をまとめていた紐を外す。人とは違う身だからか、結ばれていた髪は癖も残らず柔らかく流れていった。
 竜の体毛は、他の生物のものよりも美しく柔らかく丈夫だと言われている。特に竜の髪は自然じゃ生まれない配色であり、今のエレンを見ればわかるようにヒトの姿をとってもその特徴は現れている。また、竜の髭などは高級素材として取引されており、特に古竜のものは信じられない値が付けられているのだ。冗談のような話であるが、金持ちの女性たちの間で竜の毛を使ったカツラが流行っているらしかった。
「それじゃあ、これで休憩は終わり。今から、この白兎の牙を案内するからついてきてください」
「あ、はい」
 カウンターから出たエレンは、ハンスを先導していく。店の奥に隠れるようにあった扉を開け、「その前に――」と、そう、思い出したかのようにエレンは呟き。
「これから半年間――改めてよろしくお願いします、ハンス」
 そう言ってハンスの前に右手を差し出してきた。エレンの顔は、母のように慈しみに溢れた笑みに包まれていた。その手を握りかえしながら、胸の奥底からジワジワと何かがせり上がってくる。これからが自分の新しい人生の始まりなんだ。そう思ったハンス・シベリウスであった。


2

 北方の村に着いてから既に二日が経ち、ハンスはようやくドワーフの鍛冶場へとやってきた。
 本来ならばもう一日早く訪れる予定だった。しかし、初日にハンスの身を襲ったできごとによってその目論見は簡単に潰されたのである。あの日、白兎の牙にてエレンから建物の案内を受け終わった後、次の日のダンジョンデビューの為に身体を休めておこうと考えていたハンス。しばらくベッドの上で横になっていたのだが、そんな彼の休息を奪っていったのは、白兎の牙からの新人歓迎会であった。
 管理人であるエレンだけでなく、ハンスより先に白兎の宿舎に世話になっている先輩新人潜行士や、十年以上色々なダンジョンに潜っている大ベテラン、これからお世話になるであろう様々な装具屋の関係者などが集って開かれたその歓迎会は、気が付けば朝の五時までぶっ通しで行われ、当然のごとく祝われたハンス・シベリウスは次の朝、凄まじい頭痛と吐き気に襲われ、帰省二日目を丸々と潰したのだった。
「あんな飲み会は初めてだったなあ」
 きつかったけど、楽しかったというのが、一番の感想である。
 中でも、先輩潜行士と交流が持てたことはハンスにとって喜ばしかった。大ベテランから聞かされた話がどれも為になるものだったというのもあるが、それよりも同じように白兎の牙にやっかいになっている新人潜行士と友人になれたことがなによりも大きい。先輩といっても長くて半年なので、ほとんど同期のようなものだ。たった三人だけだったが、身近なところにそういうライバルがいるということは良いことである。
「さて――」
 気を取りなおして、ハンスは目の前の景色を眺める。
 北方の村の南。クロスボーのふもとにドワーフの鍛冶場はあった。正確にはその入り口であるが。
 目の前に建物には確かに「ドワーフの鍛冶場」と看板が飾られている。国の手によって造られただけあって、村にある建物とは似ても似つかない外観だった。事務所、と呼ぶのが正しいのだろうか。村の学院よりは小さいものの、ハンスが想像していた以上の規模があった。
 ぼうっと突っ立っているのも何なので、ハンスは扉を手に取って開けた。
「――」
 扉の先に広がっていた光景は、話に聞いていた通りのものだった。一階の中央は大きな一フロアとなっていて、どこからどう見ても潜行士な恰好をした人たちが何人も闊歩していた。食い入るように眺めていたが、そうしている訳にもいかない。ハンスは中央奥にあるカウンターへと近寄っていく。窓口は三つあり、それぞれで職員らしき人が受付をしていた。
「あの、すみません」その内の空いている一つへ声をかける。
「はい、こんにちは。ご用件は何でしょうか?」
「えっと、登録をお願いしたいんですが」
「あれ、もしかして新人さん? うわー、すごい久しぶりかも」
「そうなんですか?」
 ロイと名乗った職員の説明によると、なんでもドワーフの鍛冶場はとことん人気がないとのことだった。あまりに北の大地にありすぎて、そこで日常生活を過ごすのが嫌というものが多いというのだ。発見されてから一年間はまだ良かったが、二年目からはもうめっきりらしい。そういえば、とハンスは思う。白兎の牙もでかい割には、自分を含めて潜行士は四人しかいなかった。
 職員はカウンターの下から本一冊とそれより一回り大きい箱を取り出す。よくわからない模様が描かれているそれは、魔女の手によって造られたであろう術式具だ。
「それじゃあ、刻印をこの上にかざしてくれるかな。ああ、一応服もめくってね。それから、しばらくこのままでいてくれ。申し訳ないんだけど、登録には時間がかかるんだ」
「はあ、了解です」
 悪いと言われても、ハンスはただ肯くことしかできない。言われるがまま左腕の袖口をまくる。露出したハンスの左腕には、黒い紋様が刻まれていた。これこそが潜行士の証であり、潜行士としての情報を数値化するための印であった。何の経験も積んでいないからだろうか。ハンスの腕に印されているそれは、とても小さい。
 ハンスが刻印をかざしたのを確認すると、職員は目の前に置いていた術式具を起動させる。先程の本が入れられた箱が、音を立てて刻印を解析し始めた。
 そして数分後。
「ハンス・シベリウスくん、ね。なるほど、確かに新人だ」
 箱の中から取りだした分厚い本を読みながら、職員は納得したように呟いた。
「名前はあってますけど……何が、なるほどなんですか?」
「そうだね……学院とかで聞いたろうけど、最初っから説明すると――まず、この本。これ、実は魔女によって造られた潜行士専用の術式具なんだよね。さっきの箱を通して、この本とハンスくんの刻印が接続されたから、君の潜行士としての情報がここに記されるようになったんだ。僕ら国と君たち潜行士は、この本の情報を元に色々とやりとりするわけ。刻印は常時記録していくものだからね、嘘が表示されることはない。例えばここ、僕が見ていた君の潜行記録だけど、どこのダンジョンのものもないからね。ほら、新人ってのが一発でわかるだろう」
 ロイが差し出してきたページを覗き込みながら、なるほどとハンスは肯いた。
「こういうのも、ダンジョンの奥から発掘された技術らしいからね。初期は色々と面倒が多かったみたい。ま、君もいつかこういうものを発見することができるかもよ」
「そうなったら、いいんですけど」
「それじゃ、この本は君のだから。絶対失くさず、できるだけ常に持ち歩いていてね」
 了解の意を返し、差し出された本をハンスは受け取った。厚い割にはそれほど重くもなく、移動の妨げになることもないだろう。
「他にも色々あるけど、まあその辺は新人研修でおいおいね」
 新人研修とはその名の通り、新人のために行われる研修潜行である。潜ったことのある先輩と共にダンジョンを経験し、そこで簡単なイロハを教えてもらうという仕組みだ。致死性の高い娯楽施設としてダンジョンを管理しているとはいえ、国だって無駄に人を死なせたくないのである。
「それじゃあ、まず研修の予定を組もうか」
 誰に言うでもなくそう呟くと、ロイは別の職員を呼び出した。カウンター横に設置されていた通信用術式具に向かって、二言三言語りかける。しばらくして、一人の職員がやってきた。
「ああ、デュオくん。こちら、二か月ぶりの新人、ハンスくんね。研修予定を組ませてあげたいから、案内してあげて」
 デュオと呼ばれた若い男は「お、ついに来ましたか」なんて言いながら、ハンスに視線を向ける。
「一番若いのはニルスくんだったよね。彼が休憩所の方に向かっていくのを見たから、よろしく」
「了解です」
「それじゃ、ハンスくん。無理しすぎず、頑張ってね」
「あ、はい。ありがとうございました」
 頭を下げ、若い職員と共に案内受付から去っていく。
 そうして、デュオに連れられてハンスが赴いたのは、一階の一角にある休憩所だった。会話したり軽い食事をしたりと、何人かの潜行士が各々好きなように過ごしている。キョロキョロと辺りを見回しながら進んでいくと、隅の席に一つの人影を見ることができた。
「……っと、いたいた。ニルスさーん、ちょっといいですか?」
「あい?」
 己の情報でも確認していたのか。読んでいた本から視線を外し、ニルスと呼ばれた若い男は顔を上げた。短く雑に切られた黒髪と、それと同じくらい黒い色をした眼鏡が印象的だった。何か見覚えあるなあ、とハンスは記憶を辿る。
「何か用か、デュオ――って、あれ。ハンスじゃんか」
 見覚えがあるのも当たり前だった。ニルス・リュンクベリ。ハンスと同じく、白兎の牙にやっかいになっている潜行士だ。先日の歓迎会で友人となった一人である。潜行士になったのも二か月前であり、年齢もハンスのたった一つ上。出身も北の方で、その共通点の多さから飲み会ではやけに意気投合したのを覚えている。あの時と違って眼鏡を掛けていたので、ハンスはすぐに気が付くことができなかった。
「昨日はお疲れだったな。もう調子はいいのか?」
「何とかね。貰った薬が大分効いた。ニルスのおかげだ」
「そりゃあ、何より」と、大きく口を開けて笑うニルス。
 そのやりとりを見ていたデュオは、何だ、と口を開く。
「お二人共、知り合いだったんですか。それなら話が早いですね」
「話って何の?」
「新人研修ですよ。ウチじゃあ、新人の最初の世話はその一個上が見るのが通例でしょう?」
「……そういえば、そんな縛りあったな。研修なんて一回も見たことないから忘れてたぜ」
「まあ、二か月ぶりですからねえ。とにかく、よろしくお願いします」
「あいよー」
「それじゃあハンスさん。詳しい話はニルスさんから聞いてください。僕は仕事に戻りますね」
 最後にハンスにそう告げて、デュオは休憩室を出ていった。後に残されたハンスたちは、自然とお互い視線を合わせる。
「それにしてもやる気あるな、ハンス。まだこっち来て三日目だろ?」
「本当は昨日来たかったんだけど。せっかく潜行士になったんだから、早く潜りたかったし」
 もっとも、その目論見は二日酔いによって見るも無残に砕け散ったのであるが。ハンスは、それを引き起こした要因をじっと見据える。
「ま、どっちにしろ昨日は無理だったぜ。研修が終わっていない新人にはダンジョン攻略の許可が下りないからな」
 ニルスはその視線からわざとらしく逃れる。
「それでも早く来るに越したことはないだろ。ここで潜行士登録を済ませなきゃ、研修予定すら組めないし」
「なら、ちょうど良かったじゃねーか。俺は昨日こっちにいなかったし、もし二日酔いになってなかったら、こうして予定組むまで時間がかかってたぜ」
「……なんか上手くごまかされてる気がしないでもない」
「気のせいだって。それに、こうして直接会ってるから、研修の申請もすぐ出せる。なんなら、今からでもダンジョンに潜れるぜ」
「え、本当に?」
「マジだマジ。俺も訓練がてら軽く潜るつもりだっただけだからな。これといった予定は特に。……誰かとパーティ組んでる訳でもねーしな」
「潜る、潜る。是非とも潜る!」と、息巻くハンス。
「わかったわかった、落ち着けって!」
 今にも首を絞めそうな勢いで迫ってくるハンスを何とか宥め、「ったく……それじゃあ申請書を書いて、行くぞ。その様子だと、装備は一通り揃えてようだし」と、ニルスは告げる。
「ああ。登録したら、専用の保管庫が用意されるって聞いてたし、そこに入れておくつもりで結構持ってきた」
「そりゃ用意のいいこった」
 呆れながら、ハンスを促してニルスは先に休憩室を出ていく。
 その後姿を追いながら、数か月後の自分の姿を重ねる。こんな風に新人をしっかり先導できるようになってればいいなあ。そう思うハンスであった。


「おまえ、アホじゃないの?」
 耳に入ってきた言葉は聞きなれたものだった。学院時代も人に見られる度に言われてたなあ、とハンスは思う。 
「つーか、スコップって。まあできないことはないかもしんねーけどさ……でも、スコップが武器ってそりゃないでしょ」
「でもなあ……俺、これが一番使い慣れてるし」
「そうは言ってもよ……スコップはないだろ」
「ないかな」
「ないだろ」
「……」
「……」
「……ありだと思うけどなあ」
「……どう考えてもなしだろ」
 そこまで言われると自信がなくなってくるハンスだった。
 とは言っても、彼の武器がスコップというのは変わらない事実である。幼き頃からスコップ担いで十数年。物心付いた時から、彼の横にはスコップがあった。少し前までは、スコップと共に一生を終えるのだと思っていたくらいである。結果的に、今もこうしてハンスの手に収まっているのだが。
 長さおよそ一メートル。ハンスの手に合うように特注で作られた、世界で唯一無二の戦闘用スコップである。刃は希少金属であるミスリルによって形成されており、加えてウィッチの祝福まで受けている。武器としては、一級品のものである。もっとも、ハンスはその事実を全く知らないのだが。
 結局、使えるなら何でもいいかとニルスが納得して、その話は終わった。
「――よし、それじゃあ第一回、ハンス・シベリウスの新人研修を始めます!」
 何故だかハイなテンションでニルスがそう叫ぶ。
 二人が今いるところは、ドワーフの鍛冶場の最初のフロア。地下一階入口である。新人研修というのはおよそ三回ほど行われるのだが、休憩室での予定組みの後、気が付けば初回は本日行われる運びとなった。ハンスとしてはできるだけ早く潜ってみたかったので、それは願ったり叶ったりな話である。申請書を提出し、装備を整え、あっという間に彼らはドワーフの鍛冶場の地を踏むこととなった。
「学院とかで色々教わっただろうが、今の間だけは忘れちまえ。変な先入観持たないでダンジョンを経験した方が、覚えがいいぞ」
「おお、本当に先輩みたいだ」
「ホントに先輩だよ。……まあ、いい。とりあえず説明を始めるぞ。まず最優先条件。どんな時でも、絶対に俺たちが忘れてはならないことがある。それが――」
「それが?」と、ハンスが相槌を挟む。
「――マップの作成だ。これをしなければ、潜行士はみんな穴倉のなかで迷子になっちまう。知ってるだろうが、潜行士の死因の半分がこのせいだからな」
 それはハンスも聞いたことがあった。餓死や自殺など直接的な死因は異なるが、結局のところ根本的な原因は帰路の消失というところにある。
「登録した時に、本貰ったろ? 俺たちはブックって呼んでいるんだが。あれにマッピングを補助する機能が付いているから、それを使ってこまめに記録していくんだ。何か特徴があったところはしっかりメモっておいた方がいいぜ。地図があっても現在地がわからなくなったらお終いだからな」
 肩からかけていた革鞄から本――ブックを取り出し、確認する。確かにマップ作成機能が付いている。というか、ブックの半分以上はそのためのページだった。
「その次に気を付けるのはトラップだ。アホみたいなものから簡単に命を奪うものまで多々あって、潜れば潜るほど罠の危険性が増してくんだ。まあ最初はくだらないヤツしかねーから安心していいぜ。まず低級トラップで見抜き方を覚えてから、ダンジョン攻略を始めるんだ」
「そのトラップがあるかどうかってのは、どうやって調べてるんだ?」
「まあ最初はこれに頼るといいさ」と、ニルスは自分の顔を指差して言った。「知覚眼鏡っつってな。簡単に言うと、色々見える不思議眼鏡だ。縁が邪魔な時もあるけど、それを補うくらいのメリットがある。新人は使っといた方がいいぜー。一個余ってるから、帰ったらタダでやるよ。童貞卒業のお祝いだ」
 ただし、超絶にダサい眼鏡だぞ。そうニルスは笑う。あんまりにも恥ずかしいものだったらどうしようと思うものの、その優しさに素直に感謝するハンスだった。ちなみに、その宣言通りこの日の夜に白兎の牙で知覚眼鏡を貰うことになるのだが、確かにダサかった。
「その内、感覚的にトラップのあるなしがわかってくるようになるんだ。ダンジョンに長く潜っている影響で、って話らしいぜ。そうしたら新人卒業よ。……もっとも、あるなしがわかったところで、トラップそのものをどうにかできなきゃ一人前にはなれねーがな」
 ダンジョンの難易度を爆発的に高めているのが、このトラップなのだ。トラップはひとえに罠という訳ではなく、先へ潜るための鍵となっている。数々のトラップをパズルのように謎解いて攻略していかなければ、ダンジョンを進むこともできず、最悪の場合、地上へ帰還することもままならぬこととなるのだ。
「他にも色々あるんだが、とりあえずはこんなもんだな。詳しいことは実際体験してから、って感じだ。研修中は命の危険はないと考えていいから、安心してダンジョンを身体で感じでくれ。……他に何か訊きたいことはあるか?」
「まあ大体は大丈夫かな。元素体の話がなかったから、その辺りがちょっと気になるけど」
「ああ、そりゃ次回。まずはダンジョンの歩き方を覚えてからだ」
「なるほど了解。次回が楽しみだ」
「次を気にするのもいいが、まずは目先の楽しみから、だ。それじゃそろそろ行くぞ、ハンス」
 その言葉を聞いて、前を見据える。ぼんやりと輝く天井に照らされて、通路は奥まで薄く延びていた。それがどこまでもどこまでも延々と続いているような気がして、ハンスは右手で持っているスコップを更に握りしめる。自分が優れているとも思わないし、勇敢とも思わない。今だって心臓はバクバク鳴っている。強く握らないとスコップだって落としそうになる。
 しかし。
 ハンスは思う。それに勝るぐらいの高揚が己が身を包んでいるのだと。心臓の高鳴りも、手の震えも全てはその為だ。
「――よし、行こうか」
 そうして、一歩足を踏み出す。それが、新人潜行士としての新たなる幕が開けた瞬間だった。


3

「それからどうなったんですか?」
「結局、そのまま一階をうろちょろして終わり。まあ、マッピングも覚えたし、トラップがどういうものかってのもわかったんで、上々といえば上々かな」
「筋はいいと思うぜ。言われたこともすぐに吸収していったしな。俺の時より全然マシだ」
「確かに、ニルスは駄目駄目だったねえ」
「うん。確かに、ニルスさんは駄目駄目でした」
 ハンスが童貞潜行士の称号を卒業した次の日。白兎の牙での昼食会は、その話題でもちきりだった。ここに世話になっている潜行士御用達のテーブル席に全員が集まって、新たなる後輩の門出に盛り上がっている。
「しかし、スコップって。そんなのダンジョンで使おうとする人いるんだね。ただでさえ穴倉の中にいるっていうのに、更に何を掘るっていうのさ」
「そんなにおかしいかなあ? 結構、使いやすいんだぞ」
「いやいや、いいんじゃない。僕は好きだよ」
「ルッツに好かれてもどうしようもないだろ」
 ハンスのぼやきに対して涙がこぼれそうなくらい笑っているのは、土のような赤褐色の髪が特徴的な男だった。年の頃は、二十ちょうどくらいか。ハンスよりかは少し若く見える。そこまで大きくもない身体を震わせながら、手に持っているカップに口を付ける。
「私も好きですよ。想像したら、格好いいです!」
 それに追従するかのように口を開いたのは、更に小柄な女性だった。男に似た茶髪を後ろでまとめている。何かの骨を材料にした髪留めが、やけに目立っていた。
 男の方をルッツ、女の方をモニカ。同じベルネットという性を持つ彼ら二人は兄妹であり、今ここに住んでいる潜行士の中で一番の古株であった。同じ学院に通っていた二人だったが、そこを三月に卒業して共に北方の村へとやってきた。それだけでなく、ここでのドワーフの鍛冶場でも、兄妹でパーティを組んで活動している。更に、今月に白兎の牙を出なければならない彼らは、その後、近くにある二人暮らし用の借家で暮らすという。仲の良い兄妹である。
「だから、人に好かれたってどうしようもないんだって」
「まあいいじゃねーか、使えれば何だって」そうフォローしたのは、ニルスである。
「一番初めに否定したおまえに言われてもなあ……」
「でも、確かに使えれば何でもいいわけだからねえ。実際問題、武器なんて一定以上の効力があればいいんだし」
「威力より応用力がある方が、潜行してる時はありがたいですもんね。そういう意味ではいいと思いますよ、スコップ」
「もういいよ、スコップの話は」と、不貞腐れながらハンスは言う。
 話を切るように、目の前の食事に手を付ける。卵と野菜とカリカリに焼き上げた肉を挟んだパン。まだ数回しかここで食事をしていないが、作ったエレンが良い腕をしているということはわかった。宿舎に厄介になっている間は三割減の値で注文できるのだから、今の内に色々なメニューを味わっておこう、とハンスは思う。
 しかし、自炊にしろ外食にしろ、生活するには金がかかるのが世の道理。一流の潜行士にでもならない限り、それだけで食っていくのは無理な話なのである。
 つまり。
「そういえば、みんなどこで働いてるんだ?」
 このような質問が普通に出てくることから理解できる通り、半人前の潜行士は当たり前のように副業をして家計を回しているのだった。
「俺は宅急便配達。体力だけは自信あるからな」
「ああ、あれか。給料いいもんね。基本的に人手足りてないし」
 内心では絶対やりたくないと思いながら、そう答えるハンス。何せ、ここは北国である。おまけに、一年中雪が降るのである。実家暮らしの時によく荷物を運びにきていた人がいたが、会うたびにその人の顔がやつれていったのをよく覚えている。ニルスを見ながら、いつまで持つかなあとぼんやり考えるハンスだった。
 続けて、ルッツ。
「僕は薬屋だよ。給料がいい訳じゃないけど、薬を安く分けてもらえるからね。ハンスも、僕が働いてる時なら割引してあげるよ」
「ほんとか? それは、ありがたい。どこの店だ? 病院の横のところ?」
「いや、五番通りにある『緑の壺』っていう店。変な名前でしょ?」
「……オロフ爺さんのところか。懐かしいなあ。相変わらず元気?」
「ああ、ハンスはこの村出身だったっけ。昔のことは知らないけど、とにかく元気っていうか凄いよ。何かにつけてはよくどやされるし」
 変わってないなあ、と思う。それにしてもここの村人ではないルッツから、知り合いの現状を聞くのもハンスとしては変な感じだった。
 最後に、とモニカの方を見る。しかし、彼女は気まずそうに苦笑いをしながら、お茶を飲むだけである。ハンスが疑問に思っていると、ことの真相は横からやってきた。
「モニカは働いていないんだよ、選抜者だからね。国からの補助金で生活できるなんて羨ましい限りだよ」
「その分、リスクはでかいけどな。潜行士として成功できなきゃ終わりじゃねーか」
 学院などであまりに優秀な潜行士見習いが現れた場合、その将来性に期待して国が補助金を出すことがある。それが選抜者だ。卒業から十年間、毎月一定額の資金が選抜者のもとへ送られ、そのおかげで彼らはダンジョン攻略に専念できるのである。ただし、ノルマのようなものもあり、潜行士としてのある程度の結果を国に出さないと、その時点で補助金は打ち切られ、今まで提供してきた分の返却を要求される。まさに諸刃の剣とでもいうべきものだが、毎月の定額給付はかなりの魅力があり、国から選抜された人間は大抵この契約をするのである。モニカもその一人だった。
「へえ、そりゃすごいな。優秀なんだ」
「学院の成績が良かっただけですよ。選抜契約が吉と出るか凶と出るかは、これからの自分次第です」
 少し照れくさそうに笑うモニカ。そののんびりとした見た目からは、選抜者だということを読み取ることは難しいだろう。優れた者は意外なところにいるものだ。
 補助金を貰えるという事実と、それに値するであろう彼女の有能さに嫉妬したくなるハンスだったが、それをしたところで自分が報われる訳ではないことは理解している。結局、潜行士だろうがトンネル掘りであろうが、生きるということは自分との戦いなのだ。
「とりあえず、ハンスも早めに探した方がいいぜ。学院からの支給金だって一月くらいしか持たないだろ」
「ああ、そのつもり。今日は潜る気ないし、仕事探しに行こうかなって」
「あれ、そうなんだ。せっかくだから一緒に潜ろうって誘うつもりだったのに」
「まあまあ兄さん。ハンスさんだって都合があるんだから」
「悪いね。今度、都合がいい時には是非よろしく頼むよ、先輩方」
 そうして話を終えると、四人は空になった食器をカウンターに片付ける。その中を、エレンが忙しそうに走り回っていた。お昼時だからか、確かに店内には人が多かった。昨日、ドワーフの鍛冶場の受付で見た人もいる。覇気の溢れる髭面の男や、美しい三つ子の女性などやけに特徴的な人たちばかりだった。
「ごちそうさまです、エレンさん」
「いえいえ。みんな、出かけるんですか。こんな格好でごめんね。いってらっしゃい」
 エレンは鍋をかき混ぜながら、顔だけをハンスたちの方に向け、声をかける。それに各々返事をしていき、四人全員とも出口に向かっていく。
 ベルネット兄妹は今日もせっせとドワーフの鍛冶場へ。ニルス・リュンクベリは気合を入れて配達事務所へ。そして、ハンス・シベリウスは仕事を求めて、相も変わらず雪の降る村へ飛び出していった。


 そうはいっても、仕事なんかそうそう簡単に見つからないのが現実である。
 とりあえず求人募集の張り紙を見に、中央区にある村役場へと足を踏み入れたハンスだったが、長期で人員を募集しているところはあまり数がなかった。具体的には、図書館の裏方、学院の用務員、それにトンネル掘りくらい。最後のはないな、とハンスは思う。穴を掘るのを辞めて潜行士になったというのに、それでは逆戻りである。まさにあべこべだ。
 となると、選択肢はそれ以外のものということになるのであるが。
「手当たり次第じゃ、いつ決まるか分からないよなあ……」
 一人ぼやき、ハンスは考える。そうしてしばらく考えて、彼は一つの結論に至った。それならば、闇雲でなければ良いのだ。この村の出身である利を活かすべきである。使えるモノは使う。それが潜行士の生きていく術なのだ。
 という訳で。
「――この仕事、紹介してください」
 ハンスは、約二年ぶりに幼馴染の元を訪れることにしたのであった。
「……あんた、久しぶりに会ったっていうのに変わってないわね」
 ハンスの目の前で溜息をつく女性――まだ成人もしていないような少女だ。白兎の牙の管理人であるエレンと似た容姿を持っている。淡い髪は肩に届くくらいまであり、ハンスの記憶よりも少しばかり伸びていた。中等部の学生と同じくらいの年頃の彼女は、皺のないスーツとシャツを見事に着こなしている。誰に対して主張しているのかはわからないが、その胸元に教員の印が付いていた。
「人はそうそう変るもんじゃない、アネット」
「わたしたち竜の方が変わらないと思うけどね」
 ハンスの幼馴染であるアネットは、その容姿からもわかる通りヒトの姿をとった竜だ。
 ハンスがまだ十三歳の頃。中等部へと進学した年に、彼女は彼の前にクラスメイトとして現れた。最初、隣の席だったのが二人の縁の始まりで、気が付けば中等部と高等部の六年間、ずっと同じクラスだった。家もかなり近くにあり、人と竜の種族の差も忘れるくらい気が合ったせいか、ハンスとアネットは気が付けば腐れ縁な仲となったのである。思い返してみれば、学生時代のほとんどの記憶に彼女の姿があった。
 それから高等部を卒業し、アネットは教師の資格を取るために都会の学院へと進んだ。そこで彼女は猛勉強し最短の一年で学院を卒業して、教員免許を手にして北方の村へと帰ってきたのだ。奇しくも、それはハンスもトンネル工事会社へ就職した年であり、彼女が帰郷した日はそれぞれの職場が決まった祝いとして朝まで飲み明かしたものだった。
 まあ、その半年後。ハンスが突然のように人生の進路を曲げたことによって、二人は再びお互いの顔を見ることができなくなり、こうして会うまで二年の歳月が再びかかったのだが。
「というか、帰ってくるなら手紙くらいよこしなさいよ。そんなそぶり微塵もなかったじゃない」
「それは……すみません」
「中央の学院に行った時もそう。わたしにも何も言わず勝手に決めて、勝手に村を出たし。わたしの時はちゃんと言ったのに」
「それも……すみません」
「どうせ、面倒がったり何か言われるのがいやだったりで、連絡しなかったんでしょ。ハンスってそういうとこあるよね。今回だって、その募集の為じゃなかったらわたしに会いに来ないだろうし」
「みんな……すみません」
 頭をかきながら、何度も繰り返す。そういえば、会う度になにか叱られていたなあ、とハンスは昔を思い出した。
「ほんと、わたしに対しては礼儀も糞もないんだから」
「女の子が糞とか言わない方がいいんじゃ?」
「ヒトのことババアとか呼んでいたあんたに言われたくない」
 屁理屈というか何というか、ああ言えばこう言うとはこのことだ。アネットに対して口で勝てたことなど一度もない。アネットは遠慮なくハンスの痛いところを突いてくる。遠慮なんて存在しなかった。傍から見れば、一回り離れた少女から叱られているように見える。
「わかったから、そろそろ本題に入らせてくれ」
「……まあいいか。わたしも時間もそんなにないしね。続きは今度、雪見亭で」
「飲むのはいいけど、説教はゴメンだなあ……」
 目の前に出されていたカップを持ちながら、憂鬱そうにハンスは呟きをこぼす。喋っている間は想像以上に長かったのか、中身の紅茶はかなり温かった。
 本題――それは、アネットに仕事を仲介してもらうことだった。
 村役場の中に会った学院の用務員という仕事。求人の張り紙を見ていてこれがピンときたのは、学院というところにある。北方の村には学院は一つしかなく、そしてそこには己の幼馴染が勤めている。使えるモノは使う。だから、使えるコネも使う。せっかく学院に働いている幼馴染がいるのだから、とばかりに、ハンスは母校を訪問し、都合良く休憩中だったアネットを呼び出したのだ。
 そうして、案内された学院の応接室で待つこと数分。ハンスは勢いよく開いたドアに向かって、頭を下げながら開口一番頼みごとをしたのである。
「それで、用務員の募集だっけ? 確かまだ決まってなかったと思うから、わたしから話通しておいてもいいわよ」
「本当か? やった、仕事ゲット! やっぱり頼るべきはアネットだな」
「まだ決定した訳じゃないんだけど……まあ、学院としても用務員は今すぐにでも欲しいから、多分大丈夫でしょ。それにハンスだったら、尚更」
「俺だったらって、なんで?」
「最近、学院の排雪が調子悪いのよ。トンネル掘りしてたあんたならスコップ使うの上手いだろうし」と、アネットは気味が悪いくらいの笑顔で言う。
「もしかして、今回の募集……」
 排雪機能というのは、北方の村の各地に存在しているものである。家は当然のことながら、道路、広場、公共施設など、雪があっては生活の邪魔になってしまう場所を助けるため、これまた北竜によってもたらされた知恵によって生まれた技術だった。白兎の牙のドアについている鐘がいつでも凍りつかないのも、これの力による。
 その排雪が不可能になったということは、だ。アネットの笑顔に、とてつもなく嫌な予感をハンスは覚えた。
「うん。雪かきのため」
 そして、結果的にそれは正しかった。
 今の自分が掘ることを好んでいないと知っているのにも関わらず、そんなむかつくくらい可愛げのある笑顔で言うなんて何という女――そう思いながら、ハンスはその宣告にうなだれるしかなかった。
 雪かき。それは、スコップで雪をかくのが仕事。言ってみれば、雪掘りである。トンネルではないが、結局掘ることには変わりはない。
「あれ、それじゃあ止める?」
「……いや、やる。いいさ、雪かきでも穴掘りでも何でもやってやる」
 よくよく考えてみれば、仕事を選んでいる余裕などないのである。ハンスの本業は潜行士であり、ダンジョンに潜るのが仕事である。副業を探すのに時間をかける訳にもいかなかった。ほぼ内定が出ているといえる仕事を蹴るほど、ハンスは馬鹿ではなかった。
「まあ、実際のところ雪かきだけが仕事じゃないでしょ。普通に用務員やると思うよ。何でも、ゴラムのお爺ちゃんが今年で退職するから、今の内にもう一人入れて鍛えておきたいんだって」
「あの爺さん、まだ用務員やってたんだ」
「というか、働いている人たちはわたしたちが通ってた時とほとんど一緒。あのクライス先生もまだいるわよ」
「……やっぱ止めようかな」
「苦手だったもんね、あんた。先生は気に入ってたみたいだけど」
 幼馴染たちの会話は続く。それからアネットの休憩時間が終わるまで、彼らは学生時代の思い出話に花を咲かすこととなる。竜と人。アネットとハンスは全くもって違う存在である。しかし、今の彼らの容姿の年齢差があろうとも、実際の年齢差があろうとも、彼ら二人とってはそんなこと無関係だった。自分の祖父の祖父の祖父よりも早く生まれていようが、自分が死ぬまで彼女の容姿が変わらなかろうが、アネットはハンス・シベリウスにとってかつての級友であり、愛すべき友人だった。
 そうして、ハンスは学院を去りながら、二年ぶりの再会によって生まれた何とも言えぬ感慨をただただ味わったのであった。
 ちなみに、母校の正面玄関前で朝っぱらから雪かきするハンスの姿を目撃して、会議のために出勤してきたアネットが腹を抱えて笑うのは、また後日の話である。


4

 ダンジョン攻略の肝となるのが、いわゆる謎解きである。パズルのようなものから三次元的な仕掛けまで、仕掛けられた謎の規模は大小あるが、結局のところそれらが語ることは全て同じ。解くことができれば先へ進め、できなければ罰が待っている。
 ――それ故に、トラップ。潜行士の希望を阻む、神々の悪戯である。
 だからこそ、ダンジョンでの単独潜行は難儀とされる。孤独による精神的苦痛といった面もあるが、話は単純、一人では大掛かりなトラップを解決できないのだ。立体的なトリックは、あまりにソロ潜行士に優しくない。それを単独で解ける者を、人は敬意を評して孤高なる者と呼ぶ。その称号はまさに、一流の証だった。
 しかし、新人潜行士であるハンスにとってみれば、そんなことはまさに知ったこっちゃない話であった。
 そう。今のハンスは、それどころではなかった。
 静かなダンジョンの中に、何かを滑らす音だけが響いていた。普段なら濁った鈍い音に不快感を覚えるところだが、今のハンスにとってそれを聞いている暇などなかった。九×九マスに分割された枠の中に八枚の正方形の板がはめ込まれ、ハンスの右手はそれを一心不乱に動かしていた。
「おいおい、そんなんじゃ間に合わないんじゃねーか?」
「ちょっと静かに!」
 ハンスの傍らで突っ立ったまま、その作業を見守っているニルスが口を挟んでくる。
 ハンスにしてみれば、むしろニルスのその軽口の方が耳障りだった。集中力が切れかかる。それでもハンスの指は休むことも忘れ、ただただ右往左往している。何度か板を滑らしては、違うとばかりにやり直し、今度は別の板を動かす。
 今は、ハンス・シベリウスの第二回新人研修の真っ只中である。最初の研修では、ニルスに細かく指示されながらダンジョンの歩き方や基本作業を覚えたハンスだったが、今回は二回目。ニルス監督のもと、ハンス一人で地下二階を全て攻略するというのが第二回研修の内容だった。途中、元素体が出てきたところではニルスの解説と実演が入るという例外もあったが。
 そして現在。二人が今いるここはドワーフの洞窟地下二階――その最後のトラップであった。この扉の前にある謎を解かなければ、先に進むことができないのである。しかし、それには時間制限がかかっており、ニルス曰く「間に合わなかったら、恐ろしい罰が待っている」とのことだった。
 目の前の枠の中に収まっている八枚の板には、それぞれ違った形をした紋様が描かれていた。枠組みの中の一マス分空いているスペースにそれを滑らせていき、正しい位置に持っていくことができれば、それらの紋様は、閉ざされた扉に刻まれているものと同じ一つの絵を作り上げることとなる。そうすればハンスの行く手を阻んでいる扉はその役目を終え、地下三階への道が開かれるのだった。
「あー、違う。こうじゃなくって――」
「あんまり焦ると上手くいかないぜ」
「だから、黙れって……!」
 口を挟むニルスとそれに惑わされている自分の両方に苛立ちながら、ハンスはともかく手を動かし続けた。焦っているのが自分でもよくわかる。額から滴り落ちてくる汗を拭いながら、ハンスは一度深く呼吸をついた。
「後、どれくらいだ――って、もうそれだけ!?」
 横を向いたハンスの視線の先には、三つの灯りがあった。地上では見たことのない材質でできたそれは、見た目の通りに強固そうである。しかし、その内の二つは光が灯されていなかった。その上、唯一残っている光源は今にも消えそうで弱々しい。これが謎解きの制限時間を表しており、この三つの灯りが全て消えた時、道を塞いでいるだけのトラップは恐ろしい罠へと変化する。
「そうだな、残り十秒ってとこか?」
「嘘……ちょっと待てって!」
「待てって俺に言われてもな」
 ハンスは焦りを隠そうともせず、先程よりも速く複数枚ある板を滑らせていく。しかし、無情にも描かれている紋様はどれも繋がることはない。逆に完成から遠のくばかりだった。
 先ほど立っていた位置よりも遠くに避難したニルスが、知覚眼鏡越しに哀れみの視線を向けながら口を開いた。
「大丈夫、死にはしねーよ」
 それは言外に、諦めろという意味が含まれていた。この後、ハンスに襲いかかってくる結果に期待しながら、「――三、二、一」と死の宣告を繰り出すニルス。例えハンスがどれほど喚こうとも、当然のことながら時間は待ってくれない。
 そして――奇しくもそのカウント通りに、恐るべき罰は現れた。固まって構えていたハンスの全身を衝撃が巡る。まるで稲妻が当たったかのような痺れ。不思議なことに痛みはないものの、身体中を襲う電気のような何かは、ハンスに苦渋に満ちた声を上げさせた。
「……おーい。生きてるか?」
「……何とか」
 ハンスは蹲ったまま、身体をピクピクと震わせている。衝撃だけが身体に残っていた。遅れて、悔しさがハンスの内側からせり上がってくる。肉体的なダメージはないものの、たかだか二階のトラップも解けなかった自分が情けない。
「落ち込むのはまだ早いぞ。それ、気味悪い感覚だろ」
「実際は痛くないのに痛いというか。肘を打った時の電気が走ったような感じというか。何なんだよ、これ」
「仕組みなんて俺に分かる訳ないだろ。どういう結果になるのかは知ってるが」
「結果って? あれが罰じゃないのか?」
「甘いな新人。落ち込むのはまだ早いって言っただろうが。おまえの自慢のスコップで、自慢の顔でも覗いてみろ」
 別に自慢じゃないんだけどなあ、と思いつつも、ハンスは言われた通りにスコップの刃を顔の前に掲げる。希少金属ミスリルで造られたそれは、祝福のおかげか色褪せぬきらめきと輝きを持って、覗き込んだハンスの顔を存分に映し出していた。
「……何、この『バーカ』って」
 頬に手を添えながら、呆然とハンスは呟く。その口が開いたまま塞がらないのも無理はなかった。ただただ唖然とするばかりだ。刃に映るハンスの頬には、赤い色ではっきりと「バーカ」という文字が刻みこまれていた。しかも、左右両方にである。空いている左手で両頬を何度も何度もこするものの、完璧に人を馬鹿にした文字は消えず、それどころか摩擦で頬が痛くなっただけだった。
 低級トラップというものは、命の危険がない代わりにクリアまでの速度と正確さが要求される。そして、それを為し得なかった場合の罰が、命の危険がない代わりにくだらないくらい人を馬鹿にすることに拘ったものとなっているのだ。
「だから、さっきの罰だよ。恐ろしいことに、それは丸一日経たないと消えないのだ!」
「と、いうことは――」
「おまえはここを出た後、村中に自分のバカさを主張することになる。あー、全く恐ろしいトラップだぜ」
 目に涙を浮かべ、ニルスは大爆笑する。彼の瞳には、頬のバーカを晒して他の潜行士や村人から後ろ指差されるハンスの姿が映っているのだろう。腹を抱えてハンスの顔を眺めては、口を大きく開けていた。まるでドワーフの鍛冶場全体に響き渡るのではないか、と思うくらいの声量だ。
「……く、屈辱だ」
「ははっ、屈辱だろ。俺も研修でこれにやられたからな。ハンスの気持ちはわかるぜ。だから、そんなおまえに俺がかけられる言葉はこれしかない」
 ニルスは表情を真面目なものに変化させ、一旦言葉を切った。
「バーカ」


「何やってんの、あんた?」
「何も言うな。何も聞くな……泣きたくなるから」
 自分の顔を見て哀れんだ瞳を向けてくる幼馴染に対し、視線を返すことができなかった。
 現在、ハンスは仕事上がりのアネットと共に、昔からの行きつけである六番通りの飲み屋「雪見亭」の前にいた。待ち合わせに少し遅れてやってきたアネットは開口一番、今のハンスが一番触れてほしくないことを聞いてきた。
 そう。彼は今、普段しないような厚手の布を巻いていた。その趣味の悪い柄模様の襟巻きで鼻の頭が隠れるくらい顔の下部を覆っている。傍から見れば、ただの変人である。しかし、それを外すことはハンスにとって死活問題なのだった。
 さて、話を戻そう。なぜ彼らが雪見亭の前で待ち合わせをしたのかというと、答えは単純、飲むためにである。先日、仕事の斡旋をして貰うために学院を訪れ、ハンスは彼女と二年ぶりの再会をした。そこで再会を祝して、アネットとの飲み会開催が決定したのである。正直なところ、こんな頬の状態では外に出たくなかったハンスだったが、約束は約束だったし、用務員の件がどうなったかということも早めに聞きたかった。
 そういう訳で、その葛藤を何とかするためにハンスが導き出した答えが、彼の首というか顔に巻かれているものなのであった。
「そんな顔で言われてもね。まあ、いいけど。話は後で聞くとして、寒いから早く入りましょ?」
「十分も遅刻したアネットに寒いとか言われたくないなあ」
「へんな襟巻きしてるハンスにも言われたくないけどね」
 無駄口を叩きあいながら、彼らは店内へと入っていく。店の内装は、ハンスの記憶と全くといっていいほど変わっていなかった。それでも、久しぶりに会ったマスターは少しだけ老けているように見える。元々高齢だったということもあるが、それは二年という時間が短くも長かったことを示していた。軽く世間話をした後、ハンスたちはいつもの席へと向かった。
 雪見亭という名前が表している通り、この店では雪が降っている様を見ることができる。天井の一部が天窓となっていて、二人が昔から使っている席からは雲に覆われた微かな月の光を見ることもできて、その下で揺れ落ちていく雪はなかなか絶景だった。
「それじゃあ、今日も一日お疲れさまでした」
「再会を祝して――乾杯」
 そして、数分後。
 グラスとつまみが届いたのと同時に、ハンスとアネットは二年ぶりの再会を祝福した。雪景色の下、乾杯の音がカンと鳴り響く。キンキンに冷えたグラスに注がれた酒は思いのほか美味く、たまらず彼らは吐息を漏らした。酒を飲むのはハンスにとって自分の歓迎会以来だったが、あの時とはまた違った格別さがある。大勢で騒ぐのも良いが、気がしれた仲間と小ぢんまり飲むのもまた良いものだった。二人の手は止まることを知らず、ぐいぐいとグラスは傾いていく。
「顔出した時はあえて突っ込まなかったけど、そのバーカって何よ?」
 その話が来たかと、先ほどさらけ出した顔を歪めるハンス。両頬に赤く刻まれた「バーカ」という文字も、変形する。酒のおかげで少し顔が赤くなったからか、前より目立たなくなってはいた。それでも、間抜けは間抜けである。グラスに映る己の顔はやはり情けなかった。
 あまり面白い話じゃないんだけど。そう前置きして、ハンスは今日のダンジョンであったできごとを最初から語った。酒によって上がってきたテンションに任せて、それはもう渋い表情で語った。二回目の新人研修。補助されながらも一人でダンジョンを攻略していったこと。そして――地下二階最終トラップに引っかかってしまったこと。
 それを聞いたアネットの反応は、いつものように手厳しいものだった。
「あんた、ほんとに馬鹿ね。時間制限あるんだったら、頭の中でパズル解いてから、実際に動かせばいいのに」
 竜という存在は長寿の癖に、その記憶量が半端ない。体験したものを映像という形で記録することができたり、頭の中で現実と変わらないしっかりした姿を想像したりすることができる。その上、それらを簡単に整理することができ、いつまでも忘れることがないのである。だから、この村では何かの管理をする仕事などには、竜が大変重宝されている。一度見た資料などは忘れることもなく、記録媒体と一々比較しなくても、竜ならば自分の内を遠い眼差しで見つめるだけで素早く確認できるのである。
「それはニルスにも言われた。ああいう仕掛けは、タイマーがかかる前に解いて、解いてから挑戦するんだって。言われてみれば確かに、だよ。そのための補助をするのがブックなんだもんなあ。竜みたいに頭の中じゃできないけど、あれに書いてやれば解けたろうし」
 今日のことを思い出したら、再びハンスの腹の底から悔しさと苛立ちが溢れ出てきた。それを沈めるために、もう少なくなったグラスを更に傾ける。その勢いにつられてか、アネットもいつもより速いテンポで酒を入れている。
「気が付かなかったハンスが悪いんじゃないの?」
「そうなんだけど。……まあ、次からは失敗しないよ」
「確かにハンスは失敗を活かすのは得意だよね。最初、何も考えてないだけ、ってのもあると思うけど」
「そうかなあ」
「そうだよ。そんなんじゃ、ほんとに命の危険があるトラップとかどうするの? 死んだらやり直しできないんだよ」
 心配しているのか怒っているのか。いつの間にか空になったグラスをテーブルに叩きつけながら、アネットは苦笑いしているハンスの顔を見据えてきた。話が変な方向にずれてきたなあ、とハンスは思う。飲み会ではよくあることだが、今日のアネットのペースが速いのも関係しているのだろう。
「大体、潜行士なんてハンスには向いてないのよ。へらへらしてる呑気なあんたはトンネル掘ってるのが一番だったのに」
「その話は前にしただろ」
「それが自分から危険な場所に行くなんて、信じらんない。心配するこっちの身にもなってよ」
「……人の話聞いてないだろ。ちょっと酔ってる、アネット?」
「酔ってない! おかわり!」
「はいはい」
 心配してくれるだけありがたい、と思いながら、ハンスは追加の注文をする。アネットが軽く小腹が空いたと騒ぐので、今日のお勧めという白兎の肉を食べることにした。兎の肉は確かに美味しいのだが、かつて己を白兎に例えたハンスとしては何とも微妙な気分だ。バーカと書かれた今日の自分は、罠にかかった白兎と同じである。こうして命を取られていないだけ、マシなのだろう。
 久しぶりの二人のやりとりを懐かしく思っているのか、注文を取っているマスターは気持ちの良い笑みを浮かべていた。そして密かに、バーカと落書きされたハンスの顔を心のアルバムに深く刻み込んでいた。
「そういえば、昨日頼んだ用務員の件どうなった?」
「……? あ、そうだった。あんたに言うの忘れてた」
「で?」
「勿論、良いって。ハンスはあそこの出身だから、学院側もどんな人間かってのはわかってるしね。元トンネル掘りだってことも知っているから、即効で決定」
「よし。これでまず生活資金の工面はできた」と、ハンスは拳を握って歓喜の声を上げる。
「後、クライス先生から会うのを楽しみにしてます、だって」
「……あー、こっちは会いたくないです、って言っておいて」
 クライス先生というのは、高等部三年間ハンスやアネットの学級を見たおっさんの教師である。中々癖のある人物で、進学当初から何故か気に入られてしまったハンスは、三年間大変な学生生活を送る羽目になった。そんな彼のことを眉をひそめて思い出しながら、ハンスはそう言葉を返す。
 しかし、そんなことが吹き飛ぶくらいの衝撃がアネットの口から放たれたのである。
「自分で言いなさいよ。どうせ明日から学院に行くんだし」
「――はい?」
 想像もしていなかったアネットの言葉に固まるハンス。とぼけているのか、不思議そうにそんなハンスをアネットは見つめる。
 狙ったのかは判断できないが、その間に注文した酒が運ばれてきた。「――まずは、こちらからお先に」そう言いながら、雪見亭のマスターは二人の前にグラスを置く。そうしてマスターが去ったところで、ハンスの脳は再起動し始めた。
「おい、何だよ明日って」
「何って、研修が入ってない日ならいつでもいいって言ったの、ハンスじゃない」
「だからって明日は急すぎるだろ。しかも今日、酒飲んでるし」
「飲んでたって、明日ちゃんと行けばいいのよ。あ、ちなみに朝七時に来客用の正面玄関に来てくれれば、ゴラムのお爺ちゃんが迎えに行くらしいから」
「……了解」
 アネットの仕業なら、文句を言ったって泣いたって変わらないのは目に見えていた。どちらにしろ仕事の世話をしてもらったのはハンスの方なので、文句を言える筋合いはないのだが。でも、心の中でさめざめと泣こう。ハンスはそう思った。
 お互い追加されたグラスを手に取り、一息つく。飲まなきゃやっていられないハンスだった。喉を鳴らしながら、冷えたグラスを傾けていく。
「――はい、お待たせ」
 それからしばらくして、タイミング良く二人の前に現れたのは、本日のお勧めである白兎の唐揚げだった。一口大に切られてカリカリに上げられた白兎の肉は、酒によって引き立てられた食欲を更にそそってくる。
「うわー、美味しそう」
「確かにこれはやばそうだな」
「アナセンさんのところから、良い白兎を分けてもらってね」
 作った自分が言うのもなんだが絶品だよ、とマスターは語る。
 ハンスとアネットは目の前の料理に意識を持っていかれたのか、テーブルに静寂が訪れた。聞こえてくるのは箸を動かす音だけ。二人は同時に唐揚げを摘み上げ、同時に己の口へと入れる。
「うわー、美味しい」
「確かにこれはやばい」
「おやおや、そうでしょう?」
 二人の崩れた頬に満足した顔で、マスターは戻っていった。
 飲み慣れているせいか器用なもので、食べ続け飲み続けながら、ハンスたちは会話を続ける。学院の応接室ではろくに話もできなかったので、二年間の空白を埋めるようにお互いのことを訊きあい、己のことを語りあう。ハンスにとって自分が去ってからの村の話はとても懐かしさをそそるものだったし、アネットにとって中央の話というものはまるで遠い世界のことで興味深いものだった。
 手に取っていた酒を置きながら、そういえばとアネットはハンスを見た。
「おじさんやおばさんにはもう会ったの?」
「いや、まだだよ。まあ、母さんにはその内顔を見せようとは思ってる。ただ、父さんはなあ」
「おじさんは……まあ無理だよね。ボコボコにされるか、完璧に無視されるかどっちかな気がする」
「だよなあ……いつかは会いにいくべきなんだろうけど」
 ハンスの父、アルトゥール・シベリウスはまさに職人気質な男だ。寡黙で仕事に生きており、酒も煙草も遊びも何もしない人間だった。父と一緒に遊んだことなどハンスの記憶にはほとんどない。父と彼を繋ぐものは家族の絆以外ではスコップくらいしかなく、両方を捨ててしまったハンスにとって、もはや父親は遠く離れた存在だった。
 どこか違う場所を見るようなハンスの顔を見て、アネットは切り替えるように声を上げる。
「ま、いっか。湿っぽい話は止めて、とにかく今日はとことん飲みましょ。せっかく久しぶりなんだから」
「俺もおまえも明日朝早いんだけど――って聞いてないし」
 追加注文しにいくのか、席を立ってマスターの方へ近づいていくアネット。珍しく、彼女の気分は普段より高揚している。そんなアネットを眺めながら、今日は長くなりそうだと思いつつも、同じようにこの久しぶりの時間を心の底から楽しんでいるハンスであった。
 夜は、まだ終わらない。


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