ハンス・シベリウスの研修(下)
5
目が覚めてまず視界に入ってきたものは、通路をぼんやりと照らしているダンジョンの灯りだった。
どうやら、自分は横になっていたらしい。自分の眼が天井を見据えていることから、ハンスはそう判断する。気が付いたばかりで意識が朦朧としているせいか、ハンスは自分が何故このように通路に横たわっていたのかまだ理解できていなかった。二、三回頭を軽く振る。そうして沈んでいた頭を覚醒させていったところで、自分がこうなっていた理由を思い出した。
「……ああ……そうか」
立ち上がって、ハンスは己の状態を確認する。愛用のスコップは自分の横に落ちており、ブックや食糧の入った革鞄も中身を一つも失うことなく自分の肩に掛かっていた。これといって装備に被害は見当たらない。身体の方も同じで、どこにも痛みや怪我などはなかった。幸運なことに、安全性はある仕掛けだったのだろう。
それから辺りを見回したが、残念なことにそれはハンスに絶望をもたらすことしかしなかった。
右を見ても左を見ても、通路しかない。前を見ても後ろを見ても、誰の姿もない。喋り声のない迷宮は非常に音がなく、衣服が擦れる音でさえその静寂には勝って聞こえた。天井に備えつけられている灯りによって、通路にハンスの影法師がむなしく伸びていた。勿論、それ以外に地面を暗く染める者はなかった。
「……おーい、ニルス?」
嫌な予感と共に、ハンスは共にいた筈の先輩潜行士の名を恐る恐る呼ぶ。
しかし、こういう時の嫌な予感というものは、大抵当たるのが無情の現実である。ニルスからの返事がハンスの耳に届くことはなかった。ダンジョン内に小さく響いたハンスの叫びが、わずかにこだまする。
「……」
その後に訪れるのは、当然のように無声の静寂だった。自分の沈黙ですら、無性に心細い。たった一人になってしまったというだけで、これほどの孤独感を得るとは。身体中から冷たい汗が出てくる。スコップを持つ手がわずかに震えていた。ソロで深く進んでいる潜行士が畏敬の念を持たれている。その意味を、ハンスはようやく理解できた。
そう。
全ては、今日の朝。ニルスと共にドワーフの鍛冶場へ赴いたところから始まる。
三回目となる新人研修を行うため、彼らは気合を入れてダンジョンの中へ足を踏み入れた。えっさらほいさと地下一階を進み、もう負けんと地下二階を突破し、初めて辿り着いた地下三階。その場所で、最後の新人研修は行われた。
話に聞いていた通り、ニルスからの助けは全くなく、ハンスは緊張しながら目的の品物を探して突き進んでいった。途中にあるトラップを攻略し、邪魔をする元素体をスコップでなぎ倒し、ハンスの先導で薄暗い道を進んでいく。慎重かつ丁寧なマッピングも、本当にダサい知覚眼鏡での警戒も忘れることなく行っていく。潜行速度は決して速いとはいえなかったが、結果的にハンスは地下三階のどこかで最終研修の課題である卒業の証を見つけることができたのである。
卒業の証といっても、そこにあったのは一つの術式具であった。潜行士登録の時にブックと接続した時と同じように、その上に左腕の刻印を掲げればここに辿り着いたということが身体に刻まれる。その虚偽がありえない情報を上の受付に持っていけば、晴れてハンスはドワーフの鍛冶場を攻略する潜行士の一人となることができるのである。
その上に素の左腕を差し出し数分。ハンスの身体には卒業の証が刻まれた。よく見れば、ほんの少しだけ刻印が拡がったように思える。ブックにもその情報は反映されており、確かに彼が証を獲得したことを示していた。後は、これを国に見せるだけである。
これで新人卒業とばかりに、その時のハンスの心は何ともいえぬ感慨に満ちていた。おめでとう、と述べるニルスの声も届かないくらいだった。
だから、それがいけなかったのだろう。
少し先ばかり見ていた人間が、足元に転がっていた石に躓くのはよくある話である。
そこからの帰り道。卒業の証を手に入れたことで心が緩んでいたハンスを糾弾するかのように、そのトラップは発動した。気が付けばハンスの身体は白く発光し、薄暗いダンジョンを照らしていた。何だこれと思う暇もなく、全身を衝撃が包む。それはかつて、ハンスが地下二階で浴びたものとよく似ていた。崩れそうになる身体を無理させて、後ろを向けばすこし離れたところにいたニルスが焦燥の表情でこちらに近づいてきている。
――あ、失敗した。
全速力で走ってくるその様相を見て、ハンスはそれを理解した。しかし、既に意識は半分も落ちており、本気で焦った声を上げて自分の方に手を伸ばしているニルスの姿が、その時の彼の最後の記憶だったのである。
そうして、覚醒したハンスがいた場所が、ここだった。
もう一度だけ彼は辺りを眺める。こうして落ち着いてダンジョンを見渡せば、色々なことが理解できた。無情にも、それは理解したくないようなことだったのだが。
革鞄からブックを取り出しても、ページを捲るハンスの手はとても億劫だった。思わずこうして手にしてしまったが、潜行を支えてくれる筈のブックも今の自分にとってはまるで役に立たない、ただ重いだけの本である。投げ飛ばしたくなるのを我慢して、ブックを閉じた。
「……はあ」
もはや溜息を止める気もなかった。
ハンスはスコップを壁に立てかけると、自分も尻餅をついて同じように壁に背を任せた。
「みんなの言う通りだなあ……」
孤独のせいか、色々な考えがハンスの頭の中を駆け巡る。最終研修に向かう自分に対して、彼らが言ったことは正しかった。呑気に大口を開けて夕飯を食べている場合ではなかったのだ。あの時の呑気な自分を叱りたくって仕方がなかった。考えることも止めたくなったハンスだったが、それを止めたら正直泣きたくなってしまう。
壁に寄りかかりながら、天井を見上げる。ごちゃごちゃしたままの頭を休めるように、薄い光源の向こう側を見ようとしていたら、ふと一昨日の酒の席で幼馴染のアネットから言われた言葉が脳裏をよぎった。
『――潜行士なんてハンスには向いてないのよ』
それはまさに真実であった。新人とはいえ、こんな事態に巻き込まれるなんて。己の愚かさをただただ呪いたくなるが、そんなことをしても事態はまるで進展しない。口から勝手に出てくる溜息だけが、通路に響き渡る。項垂れた顔に合わせて、眼鏡がずれて落ちる。
そうなのである。ブックを見ても自分の位置どころか、フロアの階数すら把握できない。できる筈もなかった。それも、当然のことであろう。ここは先ほどまでいた地下三階ではない。ハンスにとって、ここはまるで見知らぬ場所であり、本来ならば来るべき場所ではないのだから。
もう一度だけ辺りを見回し、ハンスは億劫に口を開いた。
「……ここ、どこだよ」
新人潜行士ハンス・シベリウス。誰がどう見てもそうだと断言できるくらい――彼は迷子になっていた。
*
時間を少し戻そう。
八月七日――ハンスとニルスがドワーフの鍛冶場に潜る一日前。時刻は午後八時。酒場となっている白兎の牙一階にて。
良く冷えた酒と美味しい料理と愛くるしい店主の笑顔に癒されるために、今日も今日とて仕事で疲れ果てた多くの村人たちがここを訪れていた。この上を仮住まいとしている潜行士たちもその例に漏れず、いつもの隅のテーブル席で食事をとっている。別に約束ごととして決めていた訳ではないのだが、同じ時間帯に帰宅してきた全員が全員、夕食をまだ食べていなかったので、自然と一緒に食べることになった。
四人の前にあるテーブルの上には何品かの料理が並べられている。それぞれが手元の小皿に自分の分をとっては、エレンの手料理を味わっていた。特に北方の村の定番料理であるトナカイ肉の煮込みは、ハンスにとって懐かしい味だった。今日一日でとても疲労が溜まった彼にしてみれば、この上ない癒しである。
「ふぁれ、なんか疲れてるね、ハンス?」
「そう?」
「……兄さん、全部食べてから喋ってください」
「……わかってるよ」
口をモグモグと動かしながら、そう言うのはここで一番の古株であるルッツ・ベルネットだった。そんな彼に呆れるように溜息をついたのは、その妹のモニカである。諦めんとばかりに兄から視線を外し、横に座っているハンスの顔を見る。
「確かに、いつもより元気がない感じですね。何かあったんですか?」
「んー、今日から仕事始めたからかな。あんまり面白いものでもないから、ちょっと」
そう答えるハンスの表情は、確かに明るくない。もっとも、それは気疲れから来るものだったのだが。
この村唯一の学院。そこの用務員として今日から働くことになったハンスであるが、彼にとってその仕事は嫌に疲れるものであった。単純に朝七時集合だったからという理由もあるのだが、そもそもその職場に原因はある。そこは、かつて自分が卒業した学院――つまりは職場の環境は彼にとってある意味で見知ったものであり、学院側もまた逆に然りであった。
朝、雪かきをすれば幼馴染の教師に笑われ、昼、食事を食べていればかつての担任に押し掛けられ、夕方また雪かきをすれば見知らぬ後輩にジロジロ眺められる始末。ただでさえスコップで何かを掘るということが面白くないのに、そんな落ち着かない一日を過ごしていれば、ハンスでなくとも気が休まらないのは当然のことだった。
さて。
そんな彼の思いも露知らず、ハンスの言葉に少し目を見開きながら、手に持っていたパンを置いたルッツが口を開く。
「何、もう仕事見つけたんだ。手早いっていうか何というか」
「仕事探すってぼやいてからまだ二日だろ? ついてるな。俺が宅配の仕事に就くまで、その十倍はかかったぜ」と、同じように驚きながらニルスが言った。
「まあ、運というかコネだけど。役場で募集してた仕事の中に知り合いが働いているのがあったから、駄目もとで紹介してもらえるように頼んでみたんだよ」
で、結果はまあそういうこと。そうハンスは続ける。
「なるほど。そういう意味では地元ってのは大きい利点だな」
「そうだけど、そうでもないんだよなあ」
地元で見知った仲だからこそ、今ハンスはこうしてクタクタになっているのである。雪かきなどの用務員の仕事で肉体面も疲れてはいるのだが、精神面の疲労の方が大きかった。まるで都会で失敗して出戻ってきた夢追い人のような気分だ。
ハンスは一息つこうと、テーブルの傍らに置いてあるグラスを手に取り、水を飲んだ。
「それで、何の仕事なんです?」
「学院の用務員。一人辞める人がいて、それで募集がかかってたみたい」
「用務員、ってあの用務員ですか。面白いものじゃないって言われれば、何となくわかるような気もしますけど」
「しかも今、学院の排雪が調子悪くて、雪かきもやってるんだよ。というか、今日の仕事の半分以上は雪かきだった」
「雪かきねえ。スコップ持ってるおまえにはぴったりだな」と、大きく笑うニルス。
「……まあ、確かに今日スコップは使ったけど」不貞腐れながら、ハンスは言う。「まあ、仕事がすぐ見つかって良かったよ。資金源ができるっていうのは大きなことだしなあ」
「全くだな。この勢いで明日の研修も突き進んでほしいところだぜ」
そのニルスの言葉を聞いて、ルッツがまたもや声を上げた。今度はしっかりと食べ終わっているのか、口に食べ物は残っていない。
「へえ、明日なんだ。もう最後の研修なんだっけ、確か?」
「うん。次で三回目だからその筈だけど。だよね、ニルス?」
「ああ、それで合ってる」
「最後っていうとアレですよね、卒業の証」
「――卒業の証?」
さっきから自分の話ばかりだなあと呑気に考えていたハンスだったが、モニカの口から飛び出した聞き覚えのない単語に首を傾げる。疑問の答えを求めて、自分の研修監督であるニルスに視線を向けた。
まあ今日でもいいか、と口にしてから喋りはじめたニルスの話によるとこういうことだった。
基本的に新人研修というのは、それを監督する潜行士によって内容が違う。基本的な知識の確認と基本的な潜行の経験を積ませるという目的が叶うのならば、その手段は監督個々人の采配に任されているのである。しかし、最後の研修においては、その事実が当てはまることはない。
最終新人研修は国によって定められており、その内容は世界各地にある七つのダンジョン全て共通のものである。地下三階にある卒業の証を取ってくる――それが、新人潜行士に定められた最後の研修であり、彼らが本当の意味での潜行士になるための卒業試験なのだ。研修監督もそれまでのように手伝ったり、口を挟んだりすることもできなく、浅い階とはいえ難易度はそれなりに高い。
それを聞いたハンスの顔に、暗い影が浮かぶ。眉をひそめながら、嫌そうな表情で呟いた。
「……また気を休む暇もなさそうな内容だな」
「冗談言ってはいけません、ハンスさん。そもそもダンジョンで気を休める人なんていませんよ」
「うん、その通り。常に神経が張り詰めるくらい研ぎ澄ましていろ、という訳じゃないけどね」
「おまえ、たまにのんびりしてるからな。そんな調子じゃ変なトラップに引っかかって、碌なことにならないぜ」
そのハンスの呟きに、三者三様の反応が帰ってくる。とはいえ、言っていることは大体同じである。
「うん、気を付けます」
「本当ですよ。せっかく私たち知り合ったのに、もうお別れなんて嫌ですから」
「……不吉だなあ。縁起でもない」
「とはいえ、ハンスが挑むのは地下三階。危険度が高いトラップなんかめったにないだろうし、まあ大丈夫だろうね」
ルッツはそうにこやかに笑う。それに続くように、モニカも笑いながら口を開いた。
「そういえば、ニルスさんの研修の時は、危険とはまるでほど遠いものでしたね」
「……おい。別に、俺の話はいいだろうが」
「そう恥ずかしがらなくてもいいさ。新人研修なんだから、色んなことは起こるし。まあ、僕らはあの時のニルスを忘れることはないけどね」
「ないですねえ」
「……畜生。マジでおまえら兄妹は――」
結局、明日の研修の話はそれで終わりとなり、彼ら四人は酒場の喧騒の中で再び食事へと戻っていった。
ベルネット兄妹に弄られて拳を震わしていたニルスだったが、その苛立ちの矛先はルッツが確保していた料理に向かう。そうして二人のやりとりは料理の奪い合いへと発展していき、さりげなく難を逃れたモニカは笑みをこぼしていた。ハンスもそんな彼らをおかしそうに眺める。
しかし、その裏で迫りくる最終研修への緊張にしつつも、その後の潜行士生活の始まりを夢見ながら、呑気にトナカイの肉を食べているハンス・シベリウスはまだ知らなかった。変なトラップに引っかかって碌なことにならないというニルスの台詞はまさしく真実であるということを。
そうして、この次の日、見事に変なトラップに引っかかったハンスは、ドワーフの鍛冶場の見知らぬフロアの中で路頭に迷うことになるのである。
6
静かな通路にコツコツと足音が響いている。当然、その音源は一つ。たった一人でドワーフの鍛冶場を探索する姿が、そこにあった。外敵を恐れる小動物のようにゆっくり歩きながらも、静寂を恐れる子供のように足音だけはしっかり立てている。
額から一筋の汗が流れ落ちる。それに気付いた彼は歩みを止め、袖で汗を拭った。
それから、革鞄の中から飲み水の入った水筒を取り出す。残っている水を大切にするように、ほんの少しだけ口を含む。中身の揺れる音が、まだ物足りないと心を暴れさせた。その欲求を抑えつつ、身体に浸透した潤いに感謝する。
そうして、一息ついたところで、その人影――ハンス・シベリウスは呪うように吐き捨てるた。
「……これ、きっつい」
さて。
そもそもの始まりは、ドワーフの鍛冶場地下三階から見知らぬフロアへと飛ばされたことにある。あっという間に迷い人となってしまったハンスであったが、落ち込むのは終いとばかりに自身の頬を叩いて気合を入れた。壁に立てかけておいたスコップを手に立ち上がると、とりあえず彼は脱出のための探索に乗り出した。
ハンスが三階でないどこかに飛ばされたのを目の前で見ていたニルスは知っている筈であろうが、正直なところ救助が来るということはありえないことだった。ハンスだって今自分がどこにいるかわからないというのに、他の人間がそれを把握できる道理がない。現在位置がわからない行方不明者に救助を出すほど国は優しくないし、ニルス個人が例え捜索してくれたとしても、ドワーフの鍛冶場はそんな簡単に遭難者を発見できるほど狭いダンジョンではない。会える確率など万が一にもないといえた。
加えて、彼の手元の水と携帯食糧は贔屓目に見ても一日分しかなく、無駄な時間を過ごしている余裕などないのである。
そんな現状から、「休んでいる暇はない」と改めて意気込み、ハンスは初めてのフロアを慎重に進んでいった。ニルスと逸れてしまった以上、ハンスは完璧に一人でこの迷宮を攻略し、なおかつ脱出しなければならない。現在の階がどれほど深いのかハンスにはわからないが、もしこれが地下二十階を超えるような深度だったら、今の彼では帰還するための実力と時間がまるで足りなかった。
「奇跡でも起きないかなあ……まあ、絶対ありえないだろうけど」
ハンスは一人ごちる。
そうして、ゆっくりと道を進んでいく。右手にスコップ、左手にブック。知らない者が見たら首を傾げるような装備をしながら、ニルスから貰った知覚眼鏡で周囲をよく警戒していく。隠されたトラップを視覚的に認識できる知覚眼鏡といえども、罠を見抜く力が万能という訳ではないのだ。先ほどここに跳ばされたハンスがその身をもって、それを証明してみせた。現時点のハンスではどうしようもできないことなのだが、当然、怖いものは怖かった。
それでも、ハンスは道を進むしかなかった。先を行く度に現れる十字路をあてもなく折れ、見えない出口を求めて足を前へと動かしていく。時たま、トラップを発見し回避していくものの、いつまた今のハンスに見えない罠が出てくるかわからない。見落としがないように、ハンスは常に目を光らせながらダンジョンを徐々に攻略していく。
そうしていく間に、ダンジョンの四方八方から押し寄せてくる重圧を受けて、ハンスの身体を冷たい汗が襲ってきた。通路を薄暗くしか照らさぬ灯りは、ハンスにしてみれば憎らしいものだった。阻害されている視界に入ってくる道は、まるで終わりがないように見えてくる。
「――」
ソロで活動する潜行士を襲う重圧は、孤独故の寂しさだけではない。マッピングにトラップや元素体の警戒など、パーティでは普通分担する筈の役割全てを、たった一人で背負うことになるからだ。最初から最後まで、常に張り詰めた潜行をしなければならないのである。今更ながら、孤高なる者と呼ばれる潜行士の偉大さを確認したハンスだったが、それを理解したところで今の状態が変わる訳ではなかった。
当然、数日前に研修を始めたばかりのハンスがそのようなプレッシャーに耐えきれる筈もなく、進む足の速度は徐々に落ちていっていた。スコップを握る右手にも、いつも以上の力が入っていた。
しかし、それでも彼には足を止める勇気はなかった。ここに留まるくらいなら、危険を冒してでも先へ先へと進んでいく。とにかく何がなんでも道を切り開いていく。その思いで、ひたすらハンスは前へと向かっていくのである。
それほどまで、今のハンスにとってドワーフの鍛冶場は恐ろしいものだった。かつてトンネルを掘っていた時は一人でも大丈夫だったが、潜るとなると話はまた別なのである。
再びハンスは立ち止り、水を口に含む。それと一緒に、携帯の食糧も一齧りする。それぞれ大事にしないといけないことは理解しているが、それでも補給をしなければやってなんかいられないのである。少ない量であったが、それらは確かに疲れたハンスの身体を癒してくれた。
だが、心が休まることはなかった。当然であろうが、今の彼には気を休める余裕もない。
脳裏に浮かび上がってくるのは、全て良くないことばかりである。いつ、水や食料が尽きるか。いつ、己の精神が擦り切れるか。いつ、この足が先へと進まなくなるか。決して、諦めた訳ではない。諦めた訳ではないが――
「……本当にやばい」
自分が助かる可能性がほとんどないことを、ハンスは静かに悟っていた。暗い未来の想像ばかりがただ迫りくる。少しだけ、ハンスは目を閉じた。視界が消えて生まれた暗闇が、まるで今の彼の未来を表しているかのようである。
その黒一色の世界に溢れてくるのは、もう会えないかもしれない様々な人物たちだった。
例えば、そこには両親がいた。心配をかけた母親に顔を見せたかったし、厳格な父親にも立派に潜行士となった自分の姿も見せたかった。もう一度くらいは両親に会いたかった。だが、このままではきっとそんなことですらできないに違いない。自分が死んだら、父は怒るだろうか。それとも、泣くだろうか。そんなことも考える自分に、ハンスは堪らず自嘲した。
嫌な思考を振り払うように、ハンスはまぶたを開ける。当然のことながら、視界に入ってきたものは地下ダンジョンの通路である。一瞬、別の景色が映ることを期待したが、この現状が夢でしたなんて上手い話がある訳がない。そんなことハンス自身わかっているものの、くだらない冗談にですら縋りたくなってしまう。できの悪い夢を見たくなるくらい、ハンスは何としてでも死にたくなかった。助けてくれ、とここまで何かに祈ったのは、生まれて初めてだった。
しかし、だからといって現実逃避をするにはまだ速すぎる。ハンス・シベリウスにはまだやれることが残っているのだから。
そうして、彼は天に運を任せ、見知らぬ道をただただ突き進んでいく。
その数十分後。そんな彼の祈りが届いたのかまるで知らないが、彼の状況は一変することとなるのであった。
*
「……起きるもんだなあ、奇跡」
起きないから奇跡、なんて言葉を残したのはどこの誰だったか。ハンスは、それに対してとにかく異を唱えてやりたかった。
一回でも起きたことがあるからこそ、奇跡と呼ばれるのだ。一度希望を知らなければ、訪れてくる救いなんて誰も求めない。奇跡、なんて名で呼ばれることもない筈である。そして、一回でも起きたのなら、もう一度起きない道理はないと言っても良いだろう。例えどれだけありえないようなことであろうが、その事象が起こる確率はもはや零ではないのだから。
つまるところ、後はその偶発的に生まれる救いを掴めるか否かということであり。結果的にそれを掴むこととなったハンスがこうして呆けているのも、全くもって無理のない話だった。
思わずこぼれた呟きは通路の奥に響き、吸い込まれるように消え去ってしまった。そこに含まれていたのは、探索によって生まれた疲労であり、都合の良さへの呆れであり、己の運への称賛であった。それに遅れるように、それでも生き残ることができるという安堵がハンスの内にやってきた。
今、ハンスの目の前に一つの石碑が置かれていた。どこか見覚えのあるその石碑には、現代の文字で何か刻まれており、内容を読めばそれに見覚えがあるのも当たり前のことだった。
『ここを右に行くと帰還用術式具がある』
簡単にまとめると、石碑にはそう記されていた。誰がどう考えてもそれは現代に置かれたものであり、ハンスの見覚えがある理由というのも、その石碑がクロスボー山脈からよく産出されるクロス石で造られたであろうからだ。確かに、神代の遺跡が元となっているダンジョンの中で、この石碑の材質は異彩を放っていた。
――帰還用術式具。
幸運なことに、それについての知識は学院時代に習ったものに含まれていた。ダンジョン草創期、あまりの潜行士の未帰還率というか死亡率に頭を抱えていた国が、時のウィッチに頭を下げて造りあげてもらったのが帰還用術式具だった。文字通り人をそこから帰還させるためのものであり、転移という高難易度な不思議であるものの、転送範囲、転送条件をできる限り絞ることによって、それを使った潜行士を一瞬の内に地上に返せるようになった。空間転移の理屈としては、ハンスが引っかかった転送のトラップと同じである。
製作には非常に時間とコストがかかるので、全ての階に設置されている訳ではないが、国が定めた一定の階にはこのように帰還用術式具が置かれているのである。また、使用条件というのも厳しいものであり、それらの理由から、この帰還用術式具という存在は本当に緊急用の脱出装置として配備されていた。
教えられている使用条件を考えると二の足を踏みたくなるが、しかしながらハンスにそんな温いことを言っている余裕など毛頭なかった。文字通り全てを捨ててでも、彼はここから生き延びて地上に帰りたかった。大地を踏みしめるように、足を進めていく。
目の前にある十字路を右に曲がれば、果たしてその先には小部屋くらいの広間が見えた。その中心には、確かに知識通りの術式具からもれる光が、その存在を主張していた。帰還用術式具が設置されている。まだ少し距離があるのではっきりとは目視できないが、間違いはないだろう。十字路の石碑に記されていたことに嘘はなかった。それを悟ったハンスの顔に、ようやく笑みが戻ってきた。
「とりあえず一安心だ」
それが現実だと確かめるように、自然とハンスはそう呟いた。少し前よりも大分力の抜けた歩調で、通路の先を目指していく。今までの道より大分長いものだったが、それが逆に良い未来に繋がっていることを示しているようだった。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「なんか都合良すぎだけど――」
まあ、いいか。
そう言葉を続けようとしたハンスの耳に、聞き覚えのある音が入ってきた。遅れて、目の前の通路の真ん中に銀色に鈍く輝く円が描かれる。まずい、とハンスが思う間もなかった。この距離である。今から全速力で駆けだしても、向こう側には辿り着けないだろう。それでは、何の心構えもせずにただ間合いに入るだけである。自殺となんら変わりはない。
そう。
それは、まるでハンスの行く手を阻むだけのために顕現しようとしていた。
目の前が真っ暗になるように、頭の中を衝撃が駆け巡る。期待させておいて、これである。ハンスはつくづく思った。結局のところ、そうそう上手い話なんてないのだ。現実は非情だからこそ現実であった。
「――そんな上手い話ある訳ないか!」
急いでブックを革鞄の中へ戻し、スコップを両手で構えながら、優しくない世の中を罵るように叫ぶ。
目の前に現れた銀の円は、暗く静かに瞬きながら、光のもやを生み出している。ゴクリ、とハンスは息を飲んだ。それは徐々に何かを形作っていき、瞬く間もない一瞬の後、鈍い光は巨体の異形へとなり替わっていた。
自身の誕生を祝福するかのように、生まれ落ちたそれはフロアを震わすように叫びを上げた。
「――!」
人のものを上回るその叫声は、ハンスの心臓をも揺るがしてくる。今にも張り裂けんとばかりに、心の臓はいつも以上にバクバクと鳴っていた。
そこに現れたのは、元素体と呼ばれる疑似生命体だった。
それは、いわば特殊なトラップである。何かの条件をきっかけに、元素体と呼ばれるそれはダンジョンの中で形成される。生命体ではないことはわかっているが、その身体が何で構成されているのかは、まるで判明していない。鈍い銀という一色のみで様々な異形を象り、例えばそれは犬のような四足の形であったり、人のような二足の形であったり、あるいは竜のように羽のある形であったりする。
元素体の役割は一つ。遺跡に潜る者の道を閉ざすこと。それ故、ある時は謎解きを邪魔し、ある時は地下への門番をし――またある時は、今のハンスの前にいる元素体のように、希望への道を阻む。はるか昔より遺された、神々の試練なのである。
そんな元素体を屠るには直接、一定のダメージを与えるしか方法はない。それが叶えば、元素体は自ずから消滅していく。だからこそ、潜行士の必須科目としてある程度の戦闘訓練が備えられているのである。前回や今朝いた階層で元素体と相対した時も、確かにそれらは霧のように消えていった。
しかし、話はそんなに簡単なことではない。ダンジョンの深さに比例するように、元素体の強さは変化する。階層が深ければ深いほど、それらの力も速度も身体もより大きくなるのだ。
「だっていうのに……」
ぼやくハンスの前に立ち塞がっている元素体は、今まで見たものの数倍の大きさだった。
形は二足歩行の人型。まるで巨人のような身体は、この元素体の持つ膂力をただただ物語っている。ただ反対に、不格好なバランスの巨体だからこそ、その速度は大きくないと予想できる。
しかし、その事実はハンスに何も光を見せてはくれなかった。
何と、元素体の身体は見事に通路の半分以上を塞ぐほどの大きさだったのである。通路の幅以上。それがハンスの瞳に映っている元素体のリーチであり、悲しいまでにそれは変えられない事実だった。ハンスにもたらされたのは、光どころか闇のような絶望だけであった。
ハンスは、己の空気が冷たくなったのをひしひしと感じる。
「……」
当然、それは彼の身体から出てくる冷や汗によるものなのだが、当の本人はそれに気付く余裕すらない。堪らず、ハンスは再び息を飲んだ。そうしたら、訪れてくるのは震えるくらいの恐怖だった。いつもより多い唾液が、それを確かに表している。ハンスは思った。自分、そろそろ泣いてもいいだろう、と。
だが、彼はやるしかないのだ。攻略しきっていないフロアを無我夢中で走りぬけることはできないので、元素体から逃げることもできない。逃げたところで、都合良く地上への退路が見つかるとも思えないのが現状だ。それ故に、ハンスに残された道は、己と帰路を塞いでいる外敵を排除することのみ。泣いている暇ですら、彼には許されていないのである。
だから。彼は、覚悟を決めるしかないのである。歯を食いしばって、決意するようにハンスは両手を強く握りしめる。
目の前にありえないくらいの脅威が立ち塞がっているのも事実。そして、その向こう側に希望があるのもまた事実。運と実力さえあれば後者の選択肢を手に取ることができ、なければハンス・シベリウスの道はここで閉ざされる。それが、彼の現実だ。
しかし、そんな厳しい現実に打ち勝ってこそ、明るい未来が待っているのである。
「――ッ!!」
「くそっ……!」
ダンジョン内を揺るがすようなそれは、声になりきっていない元素体の叫び。それを聞いて、ハンスはスコップを構えたまま素早く、それでいて慎重に駆けだした。
全ては、生きるため。生きて、もう一度地上に帰るために。
7
帰還用術式具へと繋がる道に、また一つ轟音が鳴り響いた。それに遅れるように何かが風を切る音が聞こえてくる。その一瞬の後、吹き飛ばされていたハンスはダンジョンを揺るがすように地面と激突した。
「くっそ……! 痛いっつーの」
気が付けば、ハンスの鼻孔から血が流れ出ていた。大地とのキスは殊のほか激しいものだったらしい。思ったより、ハンスは後退させられていた。様子を見ているのか、元素体は立ち上がる彼を嘲るようにただただ見下している。攻め入ってこないのを良いことに、ハンスは革鞄から包帯の一部を取り出し、鼻に詰める。勿論、その間もハンスは右手でスコップを握り、動かない元素体を凝視している。油断したら負けということは、今さっき思い知ったのだから。
決意を胸に駆けだしてから、どれほどの時間が経ったであろうか。たかだか数分か、それとも数十分を優に超したか。正解はハンスの知るところではなかったが、頬を伝う尋常じゃないほどの汗が、その時間がとても濃密なものだったことを示している。
当然だろう。生死の境目に立っているといっても過言ではないのだ。元素体の大きな一撃をかわし滑らし、生まれた隙をついて無理矢理前へと進みスコップで反撃。そんな体力の削り削られを、ハンスはひたすらに繰り返していた。
元素体の攻撃は止むことはない。近づいてくる外敵を屠るためだけに、その太い両腕は振るわれる。振り下ろされた元素体の左手を、何とかミスリルの刃で受け流す。真っ向から受け止めて鍔迫り合いになれば、ハンスが負けるのは目に見えている。また、大きな一撃がやってきた。冷や汗を撒き散らしながら、ハンスは何とかそれをスコップで防ぎ、再度受け流す。それでも殺しきれなかった衝動が、ハンスの両腕に伝わってきた。瞬間的な痺れで力や速度が弱まりそうになるものの、死に物狂いで耐えに耐える。危険は決して待ってはくれない。前に進むためには、彼も反撃をしていかなければならないのである。
そして、先ほど。
ハンスの大きな一撃が決まり、迂闊にも喜んだその一瞬の隙だった。ぐらついていた元素体は態勢を立て直し、お返しだとばかりに大きな頭を振りかぶってきた。いわゆる、頭突きである。勿論、ハンスにそれをかわせる余地などない。何とかスコップを盾にしたものの、真正面から食らった衝撃を受け流すことはできず、通路を飛ぶという珍しい体験をする結果になったのだ。
「直撃だったら死んじゃうだろ、今の……」
まさに、スコップさまさまである。ミスリルでできているのは伊達ではなく、へこみの一つも見当たらない。尤も、ハンスは己のスコップがミスリルでできていることを露知らず、相変わらず頑丈だなあと思っていただけであったが。
目の前の敵が動かないことをいいことに、休憩がてらハンスは現況を分析する。
どれほどの時間かわからないものの、それなりに自分と元素体はやり合った。こちらには致命傷はないものの、体力も精神力もかなり削られている。相手は攻撃を食らってはいるものの、体力や精神力が尽きることはない。
「やばいよなあ」
つまり、そう口に出してしまうくらい、状況はあまり芳しくなかった。長期戦になればなるほど、彼は不利になっていく。まともに動き回れる体力が残っている間に、ハンスはこの元素体を屠らなければならないのである。
「でも、効いてはいる」
そう。幸運なことがあるとすれば、それだった。ハンスの攻撃は、しっかりとこの巨人のような元素体にも効いているのである。今まで戦った元素体より力も速度も数倍あるが、硬度はまるで変わらない。攻撃時の感触はそのままだ。雪に突き刺した時と同じように、元素体の身体に刃が通る。故に、このまま攻撃を加えていって、限界までダメージを蓄積さえれば。
「……勝てる、筈」
行く手を阻む銀色の壁は、文字通り霧のように消え去っていくだろう。それが、全ての元素体に定められた、逃れることのできない運命である。
その上、幸運なことに、元素体のスピードは最初の予想通りあまり速くなかった。ハンスを襲う攻撃の一つ一つに込められた力は凄まじいものの、その速度はハンスにも見切れるものだった。リーチがあるため、完全に回避することは難しいものの、下手を打たなければ致命傷を負うこともないといえた。
確かに、現状は良くない。削り合いである以上、疲れのある自分の方が不利である。しかし、攻撃を回避でき、攻撃を効かせることができる以上、やることは一つ。何度でも攻めるまで。そう、ハンスは決心する。
再び駆けだす。
つまり、彼がやるべきことは今までと変わらない。冷静に元素体の攻撃を処理して、的確に攻撃を決める。千日手のように何度も何度も繰り返すのだ。その先にあるゴールは二つ。ハンスの体力が尽きる時か、もしくは元素体が消滅する時。そのどちらかが訪れた瞬間に、この千日手は遂に終焉を迎えるのである。結局のところ、それは己との戦いだった。
それからは、ただひたすら似たような光景の繰り返しだった。元素体の一撃を流し、時たま食らいながらも、隙間を見つけてはスコップを振るうハンス。とはいえ、力も無限にある訳でない。止まることのない汗と、野生動物のような呼吸の荒さが、彼の疲労を物語っていた。それでも、彼はこじ開けるように前へ前へと進んでいった。地上への出口が奥にあるというのに、こんなところで立ち止っていられなかった。アネットも溜息をつくくらい、ハンス・シベリウスの諦めの悪さには定評がある。
そして、そんな彼のしつこさが功を奏すこととなった。
全く動かない現状に、飽きが来るのは疑似生命体でも同じことなのか。油断していた訳ではないのだろう。しかし、元素体は先ほどまでとは違うハンスの動きについていくことができなかったのである。攻撃を受け流しながらも、常に前へと攻め入っていた彼が初めて、元素体の攻撃に触れた瞬間、完全に引いた。多大な力が込められたその一撃は標的を失い、元素体の身体は自然の流れで前へと流れていった。
長時間の戦いによって、元素体のリーチを掴んだからこそのハンスの一手。ぎりぎりまで攻めの姿勢は変えず、それでいて当たる直前に一気に引く。下手に当たれば致死の一撃であるものの、体力も限界に近付いており、このまま膠着していたらハンスの敗北は免れない。まさに、勝利に至るための命の賭け。
だが、最後にその決意を後押ししたものは、子供の頃から聞かされていた一つの教えからだった。
『押して駄目なら引いてみろ!』
仕事一筋で寡黙な父を落としたハンスの母――ドロテア・シベリウスが良く言っていた言葉である。
母は強し。女は強し。それを証明するか如く、彼女の言葉は正しかった。戦況は一気にハンスへと傾いている。前屈みになった元素体は、誰がどう見ても隙だらけである。渾身の一撃が、元素体の頭部に決まる。弱点だったのか、それほどまでにダメージが溜まっていたのか、元素体はついに身体を崩し、その両膝を大地に着けた。
――いける!
その思いが、ハンスの胸中を駆け巡る。敵を倒す機会はここしかない。心の中で叫声を上げながら、止めとばかりにハンスはスコップを振りかぶり――
「――ッ!!」
「ぐっ……!」
そんな思いをかき消すような叫びと共に、彼の一撃は元素体の両腕によって防がれた。
呻き声だか喚き声だかわからぬものが、ハンスの口からこぼれ落ちる。それに追従するように、太い両手で締め上げられたハンスの身体から、骨の軋む音がした。抑えつけられた肋骨が、折れたくないと暴れている。その中で、ハンスの肺は拡がる場所を求めて悲鳴を上げていた。苦しさから逃れるために、左手に力を入れ死に物狂いで抵抗する。途中、左腕の骨から野太い嫌な音が聞こえてきたが、無視する。身体の内外から襲ってくる、気を失いたくなるような痛みが、逆にハンスの意識をはっきりとさせていた。
それでもハンスに為す術はなかった。足掻いても足掻いても、万力のような牢獄から抜け出すことができない。もがくハンスを嘲笑うように、元素体は拘束している腕の片方を解き、先ほどのハンスのように振りかぶった。意趣返しとで言うつもりだろうか。天井に着かんばかりに上げられたその左腕が、ハンスには命を刈り取る死神の鎌のように見えた。
「バーカ」
しかし、ハンスの顔に浮かんでいるものは絶望ではなかった。かすれた声で、かつてニルスに言われた台詞をハンスは告げる。その声にならぬ声は、どうしようもないくらいか細い。だというのに、そこに含まれているのは、元素体への冷笑だった。瀕死といってもいいような状態のハンスだが、それは相手も同じなのだ。こうして彼を握りしめながらも、いまだに膝を着いたまま。上っていった元素体の左腕も震えていて、速度はまるで蚊のようだった。
そして、そんな弱った死神にほいほい命を渡すほど、ハンス・シベリウスは優しくないのである。何せ、身体を締め付けられ、左腕を折られ、己を死に至らしめる一撃を見舞われようとしていても――彼の右腕はいまだ自由を得たままであり、そこにはいまだスコップが握られたままなのだから。
本当に偶然だった。拘束力が弱まったのも、空いた元素体の手がハンスの右手側だったのも、振り上がっていく死神の鎌がゆっくりだったのも、ただの偶然だ。――そして、右腕だけが唯一、元素体の拘束から逃れていたのも、偶然であり幸運だったのである。もしそのまま元素体に両腕で締め上げ続けられていたら、左手でしか抵抗できなかったハンスはそのまま圧死していただろう。
しかし、両の腕の拘束が一つになって圧力が減ったことで、ハンスに少しだけ……ほんの少しだけ、動く余裕ができた。余った力を全て右腕に回し、大きな手を振り上げていく元素体を前に、ハンスは残された力を振り絞って鏡合わせのように右腕を構えていったのである。
元素体が左腕を振り下ろし始めるも、もはや遅かった。それも間違い、とハンスは笑う。彼の右手は今まさに一撃を放とうとしていた。そう、狙うは頭部。先ほど効果が見えた、その一箇所。
「当た、れっ――!」
心からの叫びと共に、右手を振るう。
そうして、握られていたスコップは、ハンスの希望を乗せて元素体へと投擲された。
*
静寂は、一瞬だった。
ハンスの予想より小さく、元素体の倒れ込む音が通路に響き渡った。当然、直前まで元素体の右手の中に収まっていたハンスも地面へと近づいていく。疲労した身体で衝撃に備えるも、元素体の巨体がクッションとなったのか、思ったより安全に地に足を着けることができた。
願いが叶ったのか、投げつけたスコップは飛んで回って、狙い通り元素体頭部へ一直線に進み、音もなく突き刺さった。ハンスの顔に振り下ろされかけた左腕は目の前ぎりぎりで静止し、叫び声一つなく元素体は倒れることとなったのである。
「……はあ、はあ」
深呼吸をしようとするも、荒い呼吸は収まることを知らない。戦いが終わったからか、折れた左腕がじんじんと更に痛み出してきた。何ていうか死ぬほど痛い――そう思いながら、ぼろぼろの身体でハンスはぼやいた。
「というか、もう無理……」
骨折でさえ気絶したいほどいたいのに、体力だってもう残っちゃいない。疲労で、思考すら回らない。正直、その場に座り込みたいところだが、それをしたら起き上がる気力すら失いそうだった。早く帰ろう。その思いのままハンスは足を前に向け、開かれた出口への道を進んでいく。肩に掛けた革鞄が、まるで竜のように重たかった。捨ててしまおうと思うものの、その行為すらハンスにとって億劫だった。もうしばらくの辛抱である。そんな彼の歩みは笑いたくなるくらい哀れな速度だった。後、数十歩の距離を恨めしく思うものの、それでも道を塞ぐ邪魔者がいないのは気持ちのいいことだ。
その際に、今回の功労者であるミスリル制のスコップを目に焼き付ける。元素体の頭部に突き刺さったままの愛用の道具は、一戦交えた後とは思えないくらい美しく輝いていた。とはいえ、今回持ち帰ることはできないのである。申し訳がないと思いつつも、現時点ではどうしようもないことなのだ。泣く泣く回収を諦め、帰還用術式具のある広間を目指していく。次に会う時まで達者で――疲労困憊の頭で、そんな呑気なことを考えながら。
だから、なのだろう。
「――!」
本来ならば気付ける筈のことにすら、ハンスは気が付かなかった。その口から、渇いた悲鳴が上がる。起こったできごとに頭が追いつかない。そんな余裕すらも与えてくれなかった。
何故か、ハンスの視界は天地が逆転していた。ハンスは、死んだはずの元素体に足を掴まれ、逆さに掲げられていたのである。ありえない、と考える暇もなかった。現実を理解させるかのように、ゆっくりとハンスの身体は持ち上げられていく。その効果は確かにあって、ハンスは己の現状を悟り、その理由に至る。
そう。
元素体は文字通り霧のように現れ、霧のように消える。
だというのにもかかわらず。
「……そういや消えてなかったなあ……スコップささったままだったし」
生きているのも当たり前だ。何せ、死んでいなかったのだから。堪らず出た空笑いと共に、呟く。
倒したと思っていた元素体は死んでいなく、それに気が付かなかった自分はさっさと逃げるでもなく何をのんびりしていたのだろうか。やっとの思いで元素体を倒したのに、そこで力を使い果たしたことが逆に仇となったのである。ここまでの疲労がなければ、止めを刺すなり、すぐ逃げるなりの選択肢は選べたというのに。空しさが、ただただハンスを襲った。
元素体の右手が唸る。当然、その手に掴まれているハンスは、右手の軌道と同じように宙を舞い、通路に真っ直ぐ放たれていった。本日二回目の飛翔。だが、ハンスに受け身を取る力はもうなかった。無様に通路を転がっていく。土と血の混じった味は、心底不味い。今度は、立ち上がることはできなかった。倒れ込んだまま、顔だけを何とか横に向ける。
その視界に、求めてやまない地上への扉があった。小部屋を照らす帰還用術式具の光が、やけに眩しい。震える右手を伸ばすも、届かない。後、数歩――距離にすれば、たったそれだけだというのに。今のハンスにとって、それはまるで何よりも遥か遠くに感じられた。最早、這いずる体力も気力も残されていなかった。目を見開く元気もなく、ハンスの瞳はそっと閉じていく。
遠のいていく意識の中で、大地の振動を通して、元素体がゆっくりと近づいてきているのが把握できた。まるで死を宣告する、カウントダウンのようだった。だが、それすらも感じることができなくなるくらい、ハンスの意識は混濁していく。足音が二重三重に聞こえてくる。それらは複雑なリズムを奏でている。そんな混沌した世界でハンスはただただ沈んでいく。その中で、最後に彼は思った。
――ごめん。
ただ一言、そう思った。……それは、誰に宛てたのか。
そうして、声にならなかった呟きを最後に、ハンス・シベリウスの意識は途絶えたのである。
「――良く頑張ったな、ヒヨッコ」
その救いの声を、聞くことがないまま。
8
眩しい、とハンスは気が付けば思っていた。まぶたは閉じたままだというのに、突き破るように光のかけらが黒い世界に届いていた。目を開ける。視界の全てに刺さるように差し込んでくる光。それを浴びながら、意識を失っていたことをハンスは悟る。覚醒していくに従って、眩しく光を放つ照明の姿が見えた。幾つもの照明が、灰色の天井から吊るされている。ダンジョンの天井ではなかった。
「――お。目、覚めたか」
枕元から聞き覚えのある声が降ってくる。目だけでそちらを向けば、本を閉じて彼をの方を見る人影があった。椅子に座ったまま、ベッドに寝るハンスを眺めている。当然、その姿にも見覚えはあった。
「ニル、ス……?」
それは、午前中に不慮の事故で別れてしまった筈のニルスだった。気を使ってか、立ち上がった彼は覗き込むようにハンスの顔に近付く。ニヤつきながら、ニルスは語りかけるように口を開いた。
「おう、わかるか? ニルス・リュンクベリだぜ。大体、半日ぶりってとこか」
「……」
「じゃあ、意識が戻ったこと伝えに行くわ。ついでに水でも持ってきてやるよ。詳しい話は後でしてやるから、それまでに頭ん中整理しとけ」
ハンスが疑問を抱く暇すら与えずに、ニルスは言いたいことだけを言って部屋から出ていく。
その後ろ姿をハンスはぼんやりと眺めた。起ききっていない脳みそに喝を入れるために、深く息を吸う。
「いって……!!」
何というか、胸が痛い。思わず口から出てしまった呻き声が、ハンス一人しかいない部屋に響き渡った。戻ってくる静寂が、また空しい。視線を身体に向けると、大げさなくらい包帯が巻かれている。だが、そのおかげか。予想外の痛みと目に入った包帯によって、緩んでいたハンスの意識はしっかり覚醒した。
そうして働き始めた彼の頭は、当然の如く一つの疑問を抱く。
「……生きてる?」
そう。
記憶の限りでは、先ほどまでハンス・シベリウスは元素体と戦い、結果として敗北していた筈だった。冗談のように吹き飛んで、文字通りボロボロにされたのである。彼に残っている最後の記憶が元素体の近付いてくる足音だった。
しかし、目が覚めれば地上と思しき部屋に生きて存在している。まさに摩訶不思議であった。ハンスはできる範囲でキョロキョロと辺りを見回す。この部屋には、自分の寝ているものを含め幾つかのベッドが並んでいる。他にも、瓶や器材が納められた大きい棚がある。そこはドワーフの鍛冶場の医務室だった。ニルスに地上部の受付所を案内してもらった時、ハンスはこの部屋を確認している。その時は、よもやこうして自分が使うなど、思いもよらなかったが。
とりあえず医務室にいてベッドに横になっていることは把握したものの、「わからない」というのが正直なハンスの感想である。どうにかして生き延びて、どうにかして帰還したということは予想がつくが、どうやって生き延びて、どうやって帰還したのかがさっぱりだった。
とはいえ、知らないことを思い出すことなんて不可能である。呑気なハンスは、考えても仕方がないと左手で頭を掻こうとし、これでは仕方ないと右手で掻いた。そういえば、そうだったとハンスは思い出す。知っていることは思い出せるのである。ハンスの左腕は、見事に包帯でぐるぐる巻きにされていた。骨折。どこからどう見ても骨折である。あの野太い嫌な音と叫びたくなる痛みくらいは、しっかり覚えていた。
「本当にボロボロだなあ、俺」
「――全治二週間って言ってたぜ」
ハンスの呟きに、唐突に言葉が返ってくる。独り言を聞かれるほど恥ずかしいことはない。気が付けば、水差しとグラスを持ったニルスが部屋の中へと入ってきていた。驚愕と羞恥を隠しながら、ニルスの言葉にハンスは答える。
「二週間? 思ったより短いんだな」
「まあ、絶対安静が条件だがな。とりあえず運が良かったんだろ、大きい怪我は左腕の骨折と、肋骨のヒビらしい」
どうりで胸が痛い訳だ、とハンスは笑う。そうしたら、また胸が痛くなった。そんな呑気な姿を横目に、ニルスはグラスに水を入れ、ハンスに差し出した。ついでに、目が覚めてから訪ねたかったことを口に出す。
「で、あれから何があったんだ?」
「簡単に言うと――知らない場所に飛ばされて、運良く帰還用術式具を見つけたのはいいものの、凄い強い元素体と遭遇して、見事に敗北した。で、気が付いたらここにいた」
「……なんで生きてんだよ、おまえ?」
「むしろ俺が聞きたい」
二人きりの医務室に静寂が戻る。疑問が沈黙を呼ぶものの、本人だってわからないのに、その場にいなかった人間がわかる道理はない。仕方がないので、ハンスは貰った水を飲んで一息吐いた。何故か、水が死ぬほど美味く感じた。
「とりあえず、帰還用術式具を使ったのは確かだと思うが」
「へ、何で?」
「だって、お前が発見されたの帰還室だぜ。ちゃんと裸だったらしいしな」
まさか、とハンスは動く右手で己の身体にかかっていたシーツを捲る。包帯まみれの下半身は下着しか身につけておらず、ハンスの趣味では絶対に履かないものだった。虹のような柄。七色に染まった下着。まさに見知らぬパンツである。当然、自分が履いた記憶はない。
「……」
「安心しろって。発見された時は、ブックが被さってたらしいから」どこに、と言わないのがせめてもの情けだった。
「……」
「まあそれでも、知らない間に全裸を見られたってだけで、俺だったら泣きたくなるわなあ」
「……言うな。本当に泣きたくなる。というか、何であんな仕様なんだよ」
地下深くから一瞬で地上へと潜行士を転送する帰還用術式具。様々な制限をかけることによって、その高難易度な不思議を簡単に起こすことが可能となった。その結果、使用する潜行士にとって非常に厳しい問題が付いて回ることとなったのである。それが、転送後に全裸になってしまうという仕様だった。仕組みはハンスにもわからないが、術式具によって転送できるものは潜行士の身体と、刻印で結ぶことができる唯一のもの――ブックだけらしい。何とも言えない奇妙な話である。
という訳で。
全裸で、股間にブックを乗せて、全身怪我して気絶したまま、ハンス・シベリウスは発見されたのであった。
「人様の手でパンツ履かされたのは事実だがな、それより生きてることが何よりじゃねーか」
「……慰めるならちゃんと頼む。確かに、生きてるだけで十分だけどさあ」
片手で頭を抱えるハンスを笑いながら、ニルスは言葉を続ける。
「ホントだぜ。目の前でおまえが飛ばされた時は、正直どうしようかと思ったもんだ」
「それは俺も同じだって」とハンスも同意する。
「今の俺が探索できるところはしてみたんだが、見つからなかったしな。そんなこんなでダンジョンから地上に戻ってきたら、新人が医務室に担ぎ込まれたって騒ぎになってて、覗いてみたら案の定ハンスだった。おかげで、職員から説教いただいちまったよ。大事な新人に大怪我させるとは何事だー! ってな」
「ごめんごめん、ありがとう」
笑いながらも、ハンスは心の底からの謝罪と感謝を込めた。目の前の先輩潜行士に多大な心配と迷惑をかけたのは事実である。その上、遭難した自分を探索してくれていたということも、意識を失っていた自分に付いていてくれたということにもあって、ハンスは尚更感謝の念に堪えない。
「いつか、この借りは返すよ」
「別に俺は何もしてねーよ。むしろ新人のおまえを監督していた俺の方に責任はある」
「それは違うと思うけどなあ。とにかく、このままじゃ俺の気が済まないから」
「変なとこで真面目だな……じゃあ、ハンスの怪我が治ったら頼むことにするわ。一応、頼みたいことはあるしな」
「わかった」
握り拳を突き出してくるニルス。同じようにハンスは右手を握りしめ、ニルスの拳にカツンと当てた。まだ会って一週間くらいしか経っていないが、ハンスはニルス・リュンクベリという人間に出会えて良かったと心から思った。
「……」
「……」
そうして、そんなそこはかとなく臭い動作でお互い気恥しくなった二人の空間を破ったのは、当然といえば当然のことながら、彼ら以外の第三者によるものだった。コンコン、と沈黙を破るように部屋の中にノックの音が響く。ニルスとハンス。二人が揃って入口を見やれば、半分開いた扉の向こう側に、予想もしない美女がいた。
「――や、邪魔するよ」
真黒い短髪がやけに目立った女性だった。その美女は返事も聞かずに部屋の中に入ってくる。自信に満ちた眼差しと歩き方が、彼女の性格を表していた。ポカンと二人が口を開けている間に、彼女はハンスの横へ歩み寄った。
「お、ボロボロだけどちゃんと生きてんな。話は聞いたよ。ついてなかったね、アンタ新人だったんだって」
「は、はあ……」
「しかし、新人の割には良いモノ使ってるね。ミスリルでしょ、コレ?」
「は、はあ……」
彼女がハンスの目の前に差し出したのは、彼の愛用のスコップだった。どうやら部屋に入ってくる時から持っていたらしいが、美女の美女っぷりに気を取られて、気が付かなかったらしい。ニルスはいまだに驚いたまま、見守るように二人を眺めている。美女の言葉の意味もわからぬまま、ハンスはただ相槌のみを繰り返し、帰ってきたスコップを受け取った。
ハンスの反応に首を傾げながら、彼女は言葉を続ける。
「あれ、知らないの? 変なヤツだな。そもそもスコップってのも変わってるし」
「は、はあ……」
最近、それしか言われない。そして、さっきから同じことしか言っていない。呆然としながらもそう思うハンス。
当然のように、横に立つ彼女からも突っ込まれる。
「アンタ、さっきからそればっかだよ。怪我でアタマいかれちゃった?」
「い、いや、違いますけど――」
「それは何より。ほら、ついでだからアンタの荷物も持ってきてやったよ。鞄の中に服も入ってる」
確かに、彼女が肩にかけていた革鞄は見覚えのあるものだった。鞄を開けると、見せつけるように黒髪の美女はベッドの脇の椅子に置いた。開いた口から覗けば、確かに今日ハンスが着ていた服が入っていた。上着もズボンも血と土の汚れでボロボロで、かなり擦り切れている。そして、その中に紛れるようにレンズの割れた知覚眼鏡があった。ニルスから貰ったものだけに申し訳なく思うものの、余りにもダサかったため、ハンスとしては正直壊れて都合が良かった。
「あ、わざわざどうも。……ということはつまり、あれですか? 俺を助けてくれたのって貴女でいいんですか?」
「まあ、そんな感じ。なんか死にかけてるとこ見ちゃったから、つい。でも、ヒヨッコだったんだから、助けて正解だったかな。それで、ちょうど帰還用の術式具もあったから、そこにぶち込んどいた」
「ありがとうございます!」それを聞いたハンスは、もの凄い速度でできる限り頭を下げ、礼を言う。「――貴女のおかげで助かりました」
「あー、いいよいいよ。そういうの苦手なんだ」
苦笑いをしながら、美女は手を横に振る。短い黒髪が合わせるように波打つ。そんな動作ですら、やけに様になっていた。もっとも、頭を下げていたハンスにはそれは見えていなかったが。一歩離れたところで成り行きを見守っていたニルスだけが、照れて苦笑する彼女を見て内心で喜んでいた。どんな男だって美女には弱い。
もう話は終わりとばかりに、彼女は口を開く。
「それじゃあ、アタシは行くから。無茶するのはいいけど、あんまり無理するなよな」
そう言い残し、返事も聞かずに去っていく。ハンスが顔を上げている間に扉へと進み、最初っから最後まで揺るぎないままで、彼女は部屋を出ていった。
「……」
「……」
彼女が登場した時と同じように再び医務室に沈黙が訪れる。嵐の前の静けさという言葉は確かに正しかった。だが、どうやら嵐の後も静かになるらしい。
「……何か嵐のように現れて、嵐のように去っていったなあ。というか、凄まじい人だった」
「いやあ、凄まじい人だぜ。こんな近くで初めて見た。まさに噂に違わぬ美しさってヤツだな」と、いまだにやけたままのニルスが言う。
「確かに凄い美人だったけど。何、有名な人?」
「ドワーフの鍛冶場じゃ一、二を争うくらい有名な潜行士じゃねーか? 彼女がというか正確には彼女たちが、だが」
「彼女たち?」と、ハンスは怪訝な顔でニルスを見やるものの、答えを聞けば納得だった。
「ああ、三つ子なんだよ、あの人。エーデル三姉妹っていって、その名前でパーティを組んでる。たまに白兎の牙とかにもいるぞ」
「知らなかった。というか、あんな美人があと二人もいるのか……信じられないなあ」
ということは、だ。三姉妹でパーティを組んでいるのならば、あの時も彼女だけでなく残りも二人もいたということになる。そういえば、とハンスは記憶の紐を辿る。ドワーフの鍛冶場で意識を失う前、元素体の足音が二重三重にも聞こえてきたことがあった。恐らく、あれは幻聴などではなかったのだろう。今度会ったらしっかり礼を言おうと、ハンスは誓う。
「まあ、色んな噂があるけどな。今度、聞かせてやるよ」
「何、今じゃ駄目なの?」
「悪いが、俺はそろそろ帰る。いい時間だからな。おまえ、今日はここに泊まることになってるから、何か用があったら枕元の術式具で職員を呼べばいいらしいぜ。白兎の牙の方には、俺から言っておくわ」
「ああ、助かる。ありがとう。悪いな、わざわざ付き合ってもらって」
「ま、一応、先輩だしな。それに好きでやったことだ、気にすんな。ほら、今日一日だけでも養生しろよ。どうせ明日には追い出されるんだから」
違いない、とハンスは笑う。そんな彼に向って片手を振りながら、ニルスは踵を返し出入り口へと向かう。そして、「じゃあな」と扉の取っ手に手を掛け――
「ああ、そうそう――新人卒業おめでとさん」
ニヤリ、と本当に良い笑顔で最後にそう告げて、ニルスは医務室の扉を静かに閉めた。
一瞬、ハンスは言われたことが理解できなかった。少し遅れて、ニルスの残した言葉の意味がハンスに伝わってくる。地上に帰りたいとか、死にたくないとかで、根本の目的をすっかり見失っていた。そうである。今日ハンスがドワーフの鍛冶場に潜ったのは、第三回新人研修の為であり。そこでの課題が、卒業の証を持って地上に帰ることだった。
そして、確かに今のハンスはボロボロで酷い有り様だが、それでも彼の左腕――巻かれた包帯の下にある刻印に、卒業の証が記録されている。
「……ってことは、そうか」
無意識の呟きは、それが真実だと肯定している。祝福するように、医務室の時計の鐘が鳴った。震えが遅れてやってくる。それを抑えるように、喜びを噛みしめるように、ハンスは右手を強く握りしめた。
八月八日。新人だったハンス・シベリウスはこの日、本当の意味で潜行士となった。
*
ハンスの第三回新人研修が終わってから、ちょうど二週間が経っていた。
今は、病院からの帰り道。ようやく左腕の包帯が外され、その何とも言えない解放感をハンスは味わっていた。明日から、色々と活動できると思うと、笑いが止まらなかった。
何せ、この二週間は暇だった。自由に潜れるようになった筈のダンジョンに行くこともできず、始めたばかりの仕事も当然休むこととなり、ハンスは暇を持て余しながら白兎の牙で一人悶々と療養していたのである。まあ、エレンを始め白兎の牙の面々が話し相手になってくれたり、怪我の話を聞いたアネットが見舞いに訪れてくれたりしたので、暇といいつつも静かではなかったのだが。特にアネットは、怒りにきたのか、心配しにきたのか、苛めにきたのか、よくわからなかった。とりあえず、傷を突つかれまくった恨みはいつか晴らす、とハンスは心に誓う。
ドワーフの鍛冶場で研修をして、わかったことがハンスにはいくつかあった。その内の一つが、人間死んだら終わりということである。頭ではわかっていたつもりだったものの、実際に終わりかけた身になったことでハンスはようやく理解した。あんな、絶望と後悔が一気に襲いかかってくるような状況は二度と味わいたくない。
「――」
だから、だろうか。
ハンスの足は、今日まで無意識に避けていた場所へと向かっていた。それを後押しするかのように、太陽がさんさんと輝いている。珍しく本日の北方の村の空は青く、見事に晴れていた。雪が降っていない日なんて、ハンスがここに戻ってきてから初めてのことである。気持ちの良い日だった。青空を見上げれば、飛行竜が今日も元気に飛んでいた。
そうして、六番通りをしばらく進むと、目的の建物が見えてきた。二階建ての一軒家。ハンス・シベリウスの生家。記憶とまるで変わっていないことに、ハンスはただ安心する。
「半人前とはいえ、とりあえず潜行士となった訳だし――」
それに、とハンスは心の中で続ける。死んだら、会うことはできない。だけれども、生きていればいつだって会えるのだ。そして、いつだって会えるのならば、今会ったって別に構わないだろう。後悔は、誰だってしたくない。
見覚えのある家の、見覚えのある玄関で、見覚えのある鐘を、ハンスは静かに揺らした。凍ることのない鐘の音が響く。その音が、無性に懐かしかった。玄関のドアから一歩下がったとこに立って、内心そわそわしながら待つ。久しぶりの再会に、自分はどんな顔をして、家族はどんな顔をするだろうか。とりあえず、怪我をしていたことは秘密にしようと彼は思う。
そして、ドタバタした足音と共に、「はいはーい」と叫ぶ母の声が聞こえてきた。勢いは相変わらず衰えていないようである。慌ただしい物音が、ただただそれを物語っていた。変わっていないなあ、とハンスは思う。「お待たせしました、どちらさま?」とドアが開かれ、懐かしい顔が現れる。
頭の後ろを掻きながら、照れくさそうにハンスは口を開く。
「えっと……ただいま」
二年ぶりの、帰宅だった。