05.さらばさよならあの日々よ


 開かれた窓からは陰りをしらぬ太陽が輝き、冬の寒さを照らしている。気付けば、本日は二月二日。日曜日。昼前の衛宮邸は、気持ちの良い静寂に包まれていた。
「――平和だ」
 屋敷の住人である正義の味方候補生――衛宮士郎は心底の思いと共にそう呟き、その一瞬の後に堪らず飛び出た己の溜息に苦笑いを返した。
 思えば、ここ昨日だけで自分の日常は変わりに変わった。聖杯戦争の参加者に選ばれ、会話するのも億劫な騎士に主と呼ばれ、学園一のうっかりと名高いアイドルと愚痴を交わし、突っ込みどころの多すぎる変態と相見え――あまつさえ義理の姉である白髪紅目の幼女に襲撃されたのである。日常って何ですか? と問いただしたくなるのも無理はなかった。
 それまで士郎が生きていた世界というのは、あくまで平和なものだった。一癖も二癖もあるような知り合いしかいなかったが、彼に直接的に被害をかけるのはせいぜい幼馴染くらいのものだったのだから。……まあ、間接的にというか精神的に被害を与える者は多かったが。
 故に、彼の口から零れた言葉は全くもって自然なものであった。今の彼の世界には、忘れられかけたかれの日常が戻ってきている。もっとも、それが泡沫の夢だとわかっているからこそ、でもあった。
「洗い物も洗濯も掃除も終わったし、昼飯までゆっくりしよう」
 そう決意し、士郎は居間で腰を下ろす。
「……うん、一人って素晴らしい」
 そこはかとなく哀しい発言をし、士郎は用意してきたお茶を淹れる。
 そう。今現在、衛宮邸にいる人間は士郎一人であった。
 マスターを守るべき存在である筈のセイバーは、朝一番に屋敷に現れたギルガメッシュを伴って新都のヴェルデへ出掛けていった。当然、昨夜の約束である冬季限定白熊団子を購入するためである。あんな簡単に釣れるのに、何故ギルガメッシュは振られ続けるのかと士郎は思う。思った後に、ギルガメッシュじゃ仕方ないなと一人で納得した。
 そして、屋敷の主である衛宮切嗣なのだが――何と、彼は昨夜の出会った白い幼女に付き合って、郊外の樹海へと赴いていた。
「昨日は最後の最後まで休む暇がなかったしな……主に精神が」
 衛宮士郎は回想する。


 教会での出来事を終えた帰り道。冬木大橋を抜けて公園を歩く皆の体力というか精神力はかなり低下していた。正確には、ある一名を除いた皆が、である。その一人が減っているのは、精神力などではなくて、ただの満腹度であった。
「ようやく家に帰れるね。流石に今日は疲れたよ」
「俺も疲れた。十年前もこんな感じだったのか、爺さん?」
「まあね。どいつもこいつも曲者揃いだったよ。……敵だけでなく味方にもそれが当てはまるのが笑えない話なんだけど」
 最後尾でお腹をさすっているセイバーに振り返りながら、なるほど、と士郎は頷く。
「彼女一人だけじゃなかったんだけどね……何か色々と思いだしてきたなあ」
 切嗣は遠い眼差しを月に向けている。
 哀愁漂う背中に、後ろを歩いていたアーチャーは今の自身の原点を見た。こんなところで自分の始まりを再確認してしまった。だが、と彼は思う。こんなところに憧れた訳ではない。ないったらない。
「……何か、煙草が少し吸いたくなっちゃったよ。あそこのコンビニ寄ってくるから、士郎たちは先に帰っていて」
 返事も聞かずに、切嗣は最寄りのコンビニエンスストアへと道を変える。しかし、そんな彼に声をかける人物がいた。
「――切嗣」
「……何だい、セイバー?」
「コンビニエンスストアへと行くのならば、携帯用の食糧をお願いします。私としては、昔食べたポテトチップスが好ましい」
「……構わないよ」
 了承を得たセイバーはほくほく顔で感謝を伝える。空気の読めない子、セイバー。
 それでも切嗣はめげることなく、足を進めていく。その姿は確かにいつもより少し寂れて小さく見える。チカチカと点滅を繰り返していた外灯は光を失っていき、ついには消えた。そうして、衛宮切嗣はその闇の中へと紛れていったのであった。
「……」
「衛宮くんのお父さん、ああ見えて苦労してるんだ。まあ、苦労してない魔術師なんていないか」
 彼の後ろ姿を見送ったそう凛はそう呟き、脳裏ですぐさま自身の吐いた言葉を否定した。幾人もの少女たちとよろしくやってる魔術師を一人知っているのである。あんな蕩けた笑顔をしておいて、何が苦労だ。
「どうだろうな。昔のことはあまり教えてくれないから」
「へえ、そうなんだ」
 切嗣と別れた彼らは、公園を抜けて住宅街を目指していく。自然と会話は止み、深夜の静寂に足音だけが響いている。
「お腹が……」
 正しくは、深夜の静寂に足音と腹の音だけが響いていた。
 しかし、それに突っ込む者など最早いる訳がない。元気とは言い難い表情で士郎と凛は道を歩き、その後ろをこれまた同じような表情で従者二人が付いていく。彼らの周りだけまるで通夜のようであった。見ている者がいたら皆そう思うくらい、その表情は疲れている。
「そういえば、アーチャーの時はどうだったの?」
「何がだ、凛?」
「だから、アンタがマスターとして参加していた聖杯戦争がどんなモノだったかってこと」
 彼女の言葉に納得したように、「ああ」と感慨深く呟くアーチャー。苦笑を浮かべながら言葉を続ける。「……そんなもの、とうに忘れてしまったよ」
「本当かしら?」
「敵の情報を期待しているのかもしれないが、それが叶うことはないぞ。生前のことを覚えていられるほど、守護者の仕事は楽ではなかった」
「あれ、仕事なんてしてたんだ。無職のくせに」
「……」
「冗談よ」
 そんな主従のやりとりを眺めつつ、士郎はアーチャーのようにはならないように決意する。仕事が辛いのは構わないが、口を開くだけで毒を吐かれるのは精神衛生上宜しくないのである。
 そうしてしばらくすると、それぞれの家へと続く坂道の交差点に辿り着いた。自然と全員の足がそこで止まる。
「私、こっちだから」
 洋館が建ち並ぶ住宅街の方に顔を向けながら、そう凛は告げた。
「そっか。慎二の家よりもっと上にあるんだっけ」
「何で知ってるのよ?」
「見たことはないけど、噂は聞いたことがある。有名だからな、丘の上の幽霊屋敷」
 気に食わないのか、その言葉に凛はしかめっ面を返す。
「……まあいいけど。それより、明日また衛宮くんの家へお邪魔させてもらうから。同盟を組んだからには色々決めておきたいこともあるし。良いわよね?」
「ああ、構わないぞ」
「夕方までには行くようにするから。それじゃあね」
 家訓を思い出したのか、最後は優雅に別れを告げ、凛は士郎たちに背を向ける。そして、自宅がある道へ向けて足を進めようとし。
 進めようとしたところで――
「――はじめまして、お兄ちゃん」
 ――待ち受けていたように、冷たく高い声がその場に降り注がれた。
「な――」
 堪らず、凛は足を止めた。驚愕と苦渋に満ちた声が、彼女の内から漏れてくる。無理もない。坂道の先。月に照らされたそこにいたのは、紛れもなく幼女だったのだから。
「リンもはじめまして。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
 岩のような鋼鉄の巨人を従えた彼女は、堂々と己が名を名乗る。
 アインツベルン。
 そう。一千年もの血と歴史と悲願を持つ、古き魔術師の家系。ただ聖杯の成就――そして、その果てに至ることのみを求め続けてきた一族。聖杯戦争の生みの親とでも言うべき存在である。
 だが、彼らにとっての驚愕はそんなところにあるのではない。ないったらない。何せ、目の前に幼女がいるのだ。銀の髪に紅の眼なんていう間桐慎二が好きそうな装飾を持った幼女が、年相応とはまるで正反対とでもいうべき酷薄の笑みを浮かべて、坂の上に立っているのである。そりゃあ、もう、驚くしかないだろう。おまけに、そんな幼女が舌足らずな声でお兄ちゃんなんて呼びつつ、殺意を持った冷たい目線でこちらを見つめてくるその破壊力といったら。
「――グッ!!」
 最早、語るまでもないだろう。
「なっ、シロウ!? おのれ……我が主に何をした、アインツベルンのマスター」
 片膝を付きながら、胸を掻きむしる。反対の手で口を覆い、士郎は呟く。
「な、なんて威力だ」
 今回ばかしは、セイバーに罪はない。当然、彼の口から血など出ていないのだから。間桐慎二を友人に持つ彼にしてみれば、このような演技などお手の者である。何せ、中二からの付き合いである。そう、中二からの付き合いである。
 一方、遠坂凛は。
「幼女を今のわたしの前に送ってくるなんてね。アインツベルンもいい度胸してるじゃない」
「彼らが君の事情を知っている道理はないと思うが?」
「うるさい。そうやって口しか動かさないから、いつまで経っても無職なのよ」
「……」
 衛宮士郎とはまた別のベクトルで興奮していた。今日の彼女にとって時臣を思い出させるものは全て敵である。イリヤスフィールに投影されるかのように、魔導師な幼女たちに囲まれてふ抜けていた父の顔が凛の脳裏に浮かび上がってくる。
 目の前にいる彼女には関係がない。だが、魔術師で、幼女で、遠坂凛の敵を名乗ったからには――
「――はっ、憂さ晴らしにはちょうどいいじゃない!」
「何、やるのリン? そんな弱そうなサーヴァントでわたしのバーサーカーに敵うワケないじゃない」
 幼女の背後に立っていた巨人のサーヴァントが一歩前に出る。足音が静かに響き、大地が揺れた。バーサーカーのサーヴァント。その大きさは、長身である筈のアーチャーを優に超すほどのものである。そして、その変態さは。全身タイツである筈のランサーを優に超すほどのものであった。何せ、上半身は裸である。己が筋肉を見せつけるかの如く何も服を着ていない。そして、下には腰みののように小さなサイズの布を一切れ巻いただけであった。おまけ程度にその左右に金属の防具があるが、それでも露出度は変わらない。
 アーチャーは思った。まるで、勝てる気がしない。色々な意味で。
「いくわよ、アーチャー。バーサーカーの相手はお願い」
 しかし、非情にも彼のマスターはそう告げ、ポケットから自身の武器である宝石を取り出す。服の袖口から光が漏れる。凛の魔術刻印はとうに起動していた。 
 ――だが、そうは問屋が卸さないのである。
 ようやく戦いが始まるのか……! と内心で緊張を高めていたアーチャーを嘲笑うかのように、勿論そんな戦闘など起こる筈もなく。
「あれ、どうしたの? 皆でこんなところに立ち止まって」
 このように衛宮切嗣の登場によって、争いの幕は開く前に下げられた。
 もう残り少ない煙草を大事そうに咥えながら、コンビニエンスストアのポリ袋を片手に交差点の中央へ近づいていく。
「はい、セイバー。適当に見繕ってきたよ」
「キリツグ、貴方に感謝を」
 何という速度か。士郎の横にいた筈のセイバーはいつの間にか切嗣の横でポリ袋を奪い、中身を確認していた。その中から一つ菓子を取り出すと、下部を持って右手を振るう。風王結界は綺麗にポテトチップスの袋を切り取って、その中身を曝け出させた。
「こくこくはむはむ……ふむ、やはりコンソメ味は良いですね」
「それは何より」
 半ば呆れながらそんなセイバーを見つめつつも、慣れた様子で相槌を打つ切嗣。
「でも、なんでセイバーは武装を?」
 光らせた左手を掲げたまま、どうしたものかと固まっている凛を横目に、アーチャーはその疑問に答えを返す。衛宮士郎もいまだ衝撃から回復しきっておらず、哀しいことに落ち着いてるのは彼しかいなかった。
「それは……敵がいるからだろう」
「敵?」
「そう敵のマスターだ」
 坂の上で凛と同じように固まっている人影を指差す。それを向けられた白い幼女は、戦いを破るかのように現れた闖入者の姿に驚愕を示していた。
「――って、もしかしてイリヤ? こんなところで何やってるの?」
「……」
「いやー、今日は色んな人に会う日だなあ。何年ぶりだろう。アイリは元気かい?」
「……」
「おーい、イリヤ? さっきから黙って、どうしちゃったのさ?」
「……」
 アホのように口と目を大きく見開いたままイリヤスフィールは動かない。そんな一方的な問答の間に、衛宮士郎は深淵から復帰していた。
「危なかった……」
「あれ、士郎どうしたの?」
「あれを見てどうかしない爺さんの方がヤラれてる」
「そうは言っても、娘にときめく父親の方がイカれてるよ」
「……娘?」
「そう、娘――って、そうか。大切なコトを言い忘れてた。初めに言っておくとね、イリヤは僕の実の娘なのだ」
 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことである。一体、どこの誰がそんな事実を予想しうるだろうか。士郎だけではなく、横にいた凛までもがその事実に驚きを隠せない。そして、イリヤスフィールは、いまだ呆けている。背後のバーサーカーはどうしたものかと正直なところ困っていた。
「……本当?」
「いい加減、衛宮士郎のことで私に確認をとるのは止めてほしいんだがな……残念ながら本当だ。凛、そろそろ驚くことを諦めろ」
 私はもう諦めたよ。アーチャーはそう続ける。数えきれない守護者人生。最早、諦念など慣れたものである。
「前回の聖杯戦争、僕はアインツベルンに雇われてたって言ったろう? そこで僕はアイリ――アイリスフィール・フォン・アインツベルンと出会ってね。まあ色々あって結婚してイリヤが出来て、聖杯戦争して一人になって士郎と出会って、今に至る」
「解説ありがとう。よくわからないけど、何となくはわかった」
「なら良かった」
 はは、なんて笑顔を浮かべ、切嗣は笑う。懐の広い息子を持って、彼は幸せだった。
「――良くないっ!」
 ――だが、そうは問屋が卸さないのである。
 現実復帰したイリヤスフィールはバーサーカーに乗って坂を急いで下り、切嗣の眼前を指差しながら心からの叫びを上げた。
「なんで! どうして生きてるのよキリツグ!?」
「そもそも死んでないからね。むしろ、何でイリヤは僕が死んでいるって思ってたんだ? ……そりゃあ、十年も会っていなかったのは事実だけど」
「だって……だって、お母さまが、『貴女の知っている、衛宮切嗣は死んだ。あの人の生きた証、受け取ってほしい』って」
「……なるほど」
 憤慨しているイリヤスフィールを尻目に、切嗣は納得したように頷く。
「……っ! 大体、それならなんで帰ってこなかったの? わたしを――お母さまをあんな冬の城に置き去りにして」
 その言葉を最後に、イリヤスフィールは俯き下唇をただただ噛んだ。目から零れ落ちる涙がコートを濡らす。そんな彼女を宥めるために、切嗣は言葉を続ける。彼は内心で焦っていた。周りの視線が先程から段々と冷たくなっていっているのである。幼女を泣かした瞬間の士郎は般若さながらの表情だった。
 長い話になるんだけど――そう前置きし、切嗣は語り始める。
「十年前、僕とアイリはセイバーを連れて、この地を踏んだ。そして、第四次聖杯戦争の拠点として今の屋敷を手に入れて、そこで生活することにしたんだ。純正の箱入り娘だったアイリがそんな日本風の屋敷に喜んでくれたのを、今でも覚えてるよ。何せ、彼女はそれまでアインツベルンの城を出たことがなかったからね」
 そうして、思い出に縋るかのように切嗣は一度目を閉じて言葉を切った。セイバー以外の全員が、ごくりと喉を鳴らす。
「その中でも、彼女はテレビが酷くお気に入りで、暇な時間は四六時中見ていたんだ。そんな中、僕の仕事上の助手だった久宇舞弥も一緒に生活していたんだけど、彼女もテレビ好きだったせいかアイリと気が合ってね。……うん、気付いたら僕より仲良くなっていたよ、あの二人」
 なんだかキナ臭いというか微妙な展開になってきた、と彼らは思う。
「正直言うと、舞弥はアニメが命の人でね。気付けばアイリもその道のプロさ。それからは、お嬢様な引きこもりだった時とはまるで逆と言っていい。そうなってからはもう聖杯戦争もそっちのけ。昼間はパソコンに付きっきり。深夜はアニメがあるからって戦いに出ないし、作戦もパアだ」
 ここまで来たら、いい加減展開も読めてきた。「それじゃあ、もしかして……」代表するかのように、士郎が合いの手を打つ。
「うん、聖杯戦争が終わってもそれが変わることはない。アイリは舞弥と常に行動するようになって、地元のイベントに行くとかなんだかんだで、僕を置いてドイツに帰っちゃったんだ」
 いやー参った参ったなんて、惚けた笑いを浮かべながら、切嗣は懐かしい話を終えた。しかし、彼の瞳が薄らと潤んでいることぐらい、皆気付いている。しかし、長い付き合いである士郎ですらフォローの仕方がない。
「……つまり、捨てたんじゃなくて、捨てられたの?」
 段々と不機嫌になりながらも最後まで話を聞いたイリヤスフィールが端的にそう纏める。身も蓋もない言い方であるが、それが唯一の真実であり、つまりはそれだけのことだった。
「もうなんか、眼中にない感じだよ。アインツベルンに迎えに行っても、『アイリスフィールさまは、ただいま舞弥さまとご旅行なさっております。グロバールなオフ会……? とやらがあるらしく、今頃は北欧の方かと』ときたものさ。毎回伝言を残してもらって、数年間通ってもそれだからね。流石の僕も参っちゃったよ」
 皆の最後方に立ちながら、小さく肯くアーチャー。その表情は馴染みとなった諦念のそれである。彼は切嗣の台詞から摩耗の臭いを嗅ぎ取っていた。
「イリヤもその旅行に行ってたんだろ? だから、会えなかったんだ」
「確かに旅行には行ってたけど、そんなものだったなんて知らないわ……それじゃあ、何。全部、お母さまが悪いんじゃない」
 頬を膨らまし涙を溜めながら、彼女はやり場のない怒りを持て余す。十年も放っておかれたにも関わらず、それだけで納得できるのかと傍観者たちは思ったが、士郎は切嗣を知っているだけに理解でき、凛にしてもそれは同じであった。切嗣の人となりを少しは把握したのも理由にあるが、遠坂時臣の存在が多分にある。凛自身、同じくらいの年月を父に放っておかれており、怒りは止まないものの、そうなってしまった理由には納得はできる。
「もういいもん――バーサーカー!」
 幼女の願いに応え、狂戦士のサーヴァントは彼女を肩に乗せ、切嗣をその逆に担ぐ。
「冬木の城で十年分の愚痴を聞いてもらうんだから。その後、電話で家族会議よ」
「ははっ、お手柔らかに」
「努力はするわ。じゃあね、お兄ちゃんにリン。また次の夜に会いましょう」
 バーサーカーは魔力を込め大地を蹴る。そうして、乗り手に負担を掛けない程度の速度で夜の闇へと消えていった。最後に残されたものは切嗣のコートから落ちた、開けたばかりの煙草と、
「士郎、録画よろしくっ……!」
 凄い速度で遠ざかっていった切嗣の叫びのみ。ドップラー効果よろしく低くなって消えていったそれは、どうしようもないくらい空しく聞こえた。
「……何のこと?」
「明日は日曜だから、特撮モノの放映日だろ? 衛宮家の日曜の朝はあれを見ながら始まるんだ」
「だから録画、か。あの妻にしてこの夫ありね。いい趣味してるわ、貴方たち親子」
「よけいなお世話だ」


 まあそんな感じで昨夜は終わり、今に至る。
 衛宮切嗣は久し振りにあった実の娘にアインツベルンの城へと連れていかれ、そこで十年分の愚痴を聞かされているのであった。まあ、それは士郎の知るところではなかったが。
 ともかく、士郎はこうして一人の時間を満喫しているのであった。
 あったのだが。
「やっほー士郎。みかん星人の襲来なのだー!」
 なんてアホな台詞とともに、最強のアホが現れた。
 藤村大河――衛宮士郎のもう一人の幼馴染であり、姉代わりといってもよい女性である。数えきれないほどの蜜柑が入ったダンボール箱を抱え、家人の許可も取らずに衛宮家の居間へと侵入していく。もはや注意もせずに落ち着いて彼女の分の湯呑を用意する士郎を横目に、彼女は自身の定位置へと腰を下ろし、蜜柑を一つ手にとって皮を剥き始めた。
 唐突な登場に最早何の感慨も浮かばなくなった自分に苦笑しながら、士郎は目の前の虎を眺める。そして心底思った。今日、他に誰もいなくて良かった、と。大河一人だけでも大変だっていうのに、それに加えて聖杯戦争の関係者がいたら、もう何ていうかアホな空間が産まれていたのがこの上なく予想できた。衛宮士郎の想い出の半分くらいは、藤村大河とギルガメッシュで埋まっているというか、汚染されているのである。
「藤ねえ、今日は弓道部じゃなかったのか?」
「ううん。今日はお休み。でも、部活がなくてもわたしだって忙しいんだから!」
 焦ったように大河は主張する。
「ふーん。例えば?」
「えっと、ほら、お爺さまのお手伝いしてお小遣い貰ったりとか」
「……というか、まだ小遣いなんか貰ってたのか、アンタ」
 えへへー、と照れたように笑みを浮かべる大河。可愛げを出すには少し厳しい歳であることに、気付いてはいない。
「それで、何か用だよ。いきなり来るのはいつものことだけど、この時間帯なのは珍しいだろ」
「特に用事はないんだけどね。ちょっと休憩に訪れたのだ」
「休憩? 何かしてたのか?」
 さっきから訊いてばかりだ、と思いながらも、士郎は問いを続ける。
「んー? 実は来週ある結婚式のスピーチを頼まれちゃってるのよー。それで家で考えていたんだけど、もう頭がグルグルしてグルグルして」
 こんなに脳みそ回ってたら溶けてバターになりそうなんてほざきながら、藤村大河は出されたお茶を一気に飲む。
「……来週、結婚式があるなんて言ってたっけ?」
「何か、急にやることになったみたい。そもそもわたしがこの話を頼まれたのも、昨日だもん」
「はあ? 準備とか大丈夫なのか?」
「わたしもそう思ったんだけど、なんか最近は何でも一晩で用意してくれる会社があるみたいで、そこに頼むんだって」
 どうでも良い情報であるが、その会社はジェバンニと呼ばれている。
「凄い世の中になったもんだ……しかし、藤ねえにスピーチを頼むなんて度胸あるな、その人」
「むむむ……わたし、そこはかとなく馬鹿にされた? まあ、よくわからないけど――度胸はある人じゃないかな葛木先生」
「――はい?」
 ブブッ、と漫画のようにお茶を噴き出す士郎。正面に座っていた大河は、テーブルに置いてあった蜜柑入りダンボールでそれを防ぐ。持前の野生の嗅覚が功を奏したのか、奇跡的にも彼女はその窮地から脱していた。
「葛木ってあの葛木? ウチの学園で教師をしているあの葛木宗一郎?」
「そうよ。あと、ちゃんと先生を付けなさい」
 キッチンより持ってきた台布巾で濡れたテーブルを拭く。それをしつつ、士郎は大河の言葉に謝罪を返した。次いで、先程耳に入ってきた驚愕の事実について問いただす。
「それより、葛木先生が結婚するって本当なのか?」
「ホントのホント。わたしも聞いた時にはびっくりしたけどねー」
 士郎の脳裏に葛木宗一郎の姿が浮かぶが、彼から結婚という単語は一文字も投影されてこない。
「一応、式が終わるまで生徒には秘密になってるからね」
「俺も一応、生徒なんだけどな」
「へ? だって、士郎は無闇に噂しないでしょ?」
「……まあ、それはそうなんだけど」
 真面目な顔でそう告げられ、士郎は何ともいえない居心地にむず痒くなりながら、お茶を手に取り一息吐いた。
 大河はダンボールの中から本と紙とペンを取り出し、スピーチ原稿を作り始める。原稿作りの参考書を片手に、彼女はお祝いの言葉を模索する。しかしその五秒後、その目的は別の方向へシフトし、彼女のペンは虎の落書きを生み出し始めていた。逆の手は、本でなく蜜柑を掴んでいる。
「――凄いな、オイ」
「な、何? なんでいきなり褒めるのよう!?」
 頬を赤らめ照れながら、彼女は器用に片手で剥いた蜜柑を口に運ぶ。
「……」
 みかん星人の名は伊達じゃないと思いながら、士郎は立ち上がる。
「あれ、どうしたの士郎?」
「もうすぐ昼だろ。材料も少なくなってるし、買い物に行ってくる。蜜柑、あんまり食べ過ぎない方がいいぞ」
「はーい」
 口をモグモグさせながら、大河は了解する。その瞳の輝きが増したのは、気のせいではないだろう。そんな彼女に微笑ましく呆れつつも、一昨日までの日常はこんな感じだったなあ、と士郎は感慨に更けるのであった。


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