掌編ナンバーズ
#01


#01 戦場でメリークリスマス / おまけ
#02 その涙は、あまりに昏く……
#03 I don't know whether I'm happy or not.
#04 セイバーの三分間ダッキングクッキング
#05 雪は無邪気な冬の女王
#06 我が為に腹は鳴る
#07 春のうらら
#08 King Arthur gets up late.
#09 きみとぼくの失くした世界
#10 セイバー・イン・ザ・ダーク


#01 戦場でメリークリスマス    

 衛宮士郎、十七歳。
 将来の夢――正義の味方。


 窓から入ってくる冬の夜風で、目が覚めた。
 時計を見ると、時刻は午後八時。予定通りの時間とはいえ、いつもの起床時間とはまるで逆である。窓の外から空を見ても、其処にはぼんやりと浮かぶ月と、微かに輝く幾つかの星しか見ることが出来ない。
 そのことにかなりの違和感を感じながらも、毎朝のように一先ずグッと伸びをする。何時間もの睡眠により硬くなった体は、骨の軋む音を立てながら柔らかさを取り戻していった。

 とりあえず洗面所に行き、顔を洗う。その水の冷たさに震えながらも、残っていた眠気が吹き飛ぶ瞬間はかなり気持ちがいい。
 が、正面の鏡を見て、その快感も消える。
 其処に映るのは、一人の男。衛宮士郎、自分自身。
 髪は白く脱色し、肌は黒ずんでいるその姿は、己でも目を背けたくなる程、痛々しかった。そうなるのが仕方の無いことだとわかってはいても、やはり自身の変化を目の当たりにするのは少し恐ろしい。
 気を紛らわすかの如く、濡れた顔をタオルで擦るように拭く。しかしそれでも、この胸の奥に残るしこりが消え去ることはなかった。
 いつもの感傷を終え、自室に戻る。
 既に師走に入り、冬の寒さも段々と厳しくなってきた。加えて、今は既に夜。しっかり着込みたいところではあるが、まだこれから柔軟運動をしなければならない。汗を吸収しやすい軽装を選び、着替えをする。
 そうしてふと横を見ると、見慣れた赤い外套があった。今はこうしてのんびりとしているが、この後、これを着て戦場へ行かねばならない。
 ――正義の味方。
 それをすることを、誰かに望まれた訳でもない。それをすることで、己に見返りがくる訳でもない。それでも、それによって救われた人々の幸せな笑顔が見たかった。喜びの声が聞きたかった。だから、俺は戦場に行く。例え、その行為によって衛宮士郎という存在が破滅する可能性があるのだとしても……その選択は、決して間違いなんかじゃない。
 そうして再び決意を固めた俺は、着替えを済まし、部屋を出ていった。
 道場に寄る前に台所へ行き、炊飯器のスウィッチを押す。
 そのジャーに用意された米の量は、昔と比べると随分少なくなっている。思えば、昔は何合もの米を炊いていたものだ。それが今やたったこれだけ。
 ――もう、懐かしかったあの頃とは違うのだ。
 あからさまに、そう告げられているような気がしてままならない。
 しかし、それは当然だ。時が流れるに連れ、全てのものは変化していく。不変、永遠。そんなものなどある筈が無い。今までいて当然だった者がいなくなる。そんなことはもう何度も経験した。
 だから、それはわかっている。わかってはいるのに――
「いや、そんなことばっか考えてたら、あいつに怒られるな」
 考えを断ち切り、踵を返す。そしてそのまま道場へと向かった。


 時刻は二十二時。遂に、決行の時だ。
 夕食も既に食べ終え、体も軽く休めてある。いつも通り、出来る限りの万全な準備をした。
 だというのに、心臓はバクバクと鳴り、血は沸騰するくらい熱くなっている。それはそうだ。今夜の作戦に失敗の二文字は許されていない。ただでさえ現状は決して良いものじゃないのだ。もしこれが成功しなければ、この先にはきっと絶望しか存在しなくなる。そう考えただけでも、心が砕けそうになる。
 でも。
 この体は。既にポンコツの筈のこの体は。そんなことを許しはしなかった。俺の体は言った。確かに言ったのだ。
 恐れることはない。挫けることはない。そう――

 ――I am the bone of my sword.体は剣で出来ている

 ならば、不可能な筈が無い。折れることなどある筈が無い。この体が動く限り、俺は何があろうと止まらない。
 その誓いを胸に、赤い外套を羽織り、屋敷を出る。

 ――さあ、行こう。最初は山中さんの家だ。


 衛宮士郎、七十七歳。
 現在の職――深山町の正義の味方(サンタクロース)(ボランティア)。





/01 おまけ    

 ようやく全てのプレゼントを配り、家に着いた。玄関のドアを開け、屋敷に入る。
「ふう、ただいまっと。いや、良かった。今年も大成功だったな。親御さんも喜んでたし」
 そう呟き、作戦の成功を喜んでいると――
「――あら、そう。それは良かったわね、士郎」
 何故か、聞こえる筈の無い声が俺の耳に入ってきた。
「な、凛!? な、何で、お前ロンドンにいる筈じゃ――」
「ちょっと予定が切り上がったから、早く終わったのよ。だからさっき着いたばっか」
「そ、そうか……む、迎えに行けなくてすまん」
「いいわ、別に。わたしも連絡しなかったんだし」
「そうか、ならいいんだ、うん。じゃあ長旅で疲れたろ。もう寝ようか、ああ、それがいいな」
「あら、わたしは全然疲れてなんかいないんだけど。それより――何でそんな格好しているのかしら、士郎?」
 っ! ヤバイ。あの笑顔は、果てしなくヤバイ。
「あ、えっと、これはだな……その……」
 それにしても当日にばれるとは予定外だ。いつか気が付くとは思っていたけど、こんなのってアリかよ? まだ対策を考えてすらいないってのに。俺の未来は破滅しかないのか……?
「わたし、去年言った筈よね。今度やったら、寿命で逝く前にわたしの手であの世に送るって」
「……ハイ」
「ったく、アンタねえ……。いい、ウチには他人の家にやるお金なんてないの!」
「……いや、でもみんな喜ぶんだし」
「だから、それが間違ってるって言ってんのよ! 大体なんでいい歳した爺さんがサンタクロースなんてやんなくちゃいけないワケ? しかもプレゼントの費用は自分のお金。オマケにそれを貰った子供達は士郎の存在に気付いていないじゃない。そういう損な役割はね、町内会がやるものなのよ」
「……仕方無いだろ。ウチの町内会はそういうイベントやる気ないんだから」
 そう。誰もやらないんだったら俺がやるしかないじゃないか。
「……はあ、やっぱどう言っても聞かないか。それが士郎だもんね。仕方無い」
「え? そ、それじゃあ――」
 ――見逃してくれるのか? なんて、ありもしない幻想を思った瞬間。
「うん、仕方無い。仕方無いから、士郎――とりあえず死になさい」
 あかいあくまが降臨した。
「って、まさ――」
 そう言い終わらない内に、マシンガンのような音と共にガンドが飛んでくる。
 その有様はまるで喜寿に達した人間と思えない程、若々しい。というか、絶対魔術かなんか使ってるだろ。全然迫力が衰えてないぞ。大体、もう刻印はないのに何でこんなに連射出来るんだよ……!! って、やば――
 ドスッっという衝撃の後、一瞬にして身体全体が重くなる。
「くそっ、やっぱ……こうなるの、かよ」
 なんていうか、ちょっとマジで死にそうなんですけど……。
 朦朧とする意識の中でそんなことを思う。でも、いいんだ。俺は後悔なんかしていない。そうだ。例え凛に理解されなくても。それでも――俺は、間違えてなんかいなかった――。

 ――――メリークリスマス。





#02 その涙は、あまりに昏く……    

 気が付けば、赤。
 ぐしゃっ、という不快な音と共に、生きている肉を斬り裂いた感触が剣から伝わってきた。

 ――いつから、オレはこれに対して何も感じなくなったのだろうか。

 返り血を浴びながら、ただそれだけを思った。


 斬り付けられ、崩れ落ちる相手を見る。
 魔術師。根源に至ろうとしているモノ。オレの脳には既に、今回殺すべき対象の情報が流れ込んでいる。それに思わず笑ってしまう。世界の端末となり己の意思が無い自分が、それを知って何になると言うのだ。オレの身体は勝手に人を殺す。ただ多くの人間を守るために、彼らを害するモノを殺すじゃないか。ほら、見てみろ。今回だってそうだ。今こうして目の前の相手を斬り付けている!
 だが、オレがどれだけ拒もうとも、それは決して変わらない。為すことはただ一つ。目の前のモノを殺すだけ。守護者としての自分が、再び投影開始と呟く。違和感を覚えながらも、血の脂で濡れていない新しい剣を作る。
 今回は何故か、そのまま実体化したのではなく、現世の肉体に憑依した。実体化するよりも安全に殺せると世界が判断したのだろうか。確かに本来の身体との齟齬は少ないが、それでも万全とは言い難い。
 魔法に至りかけている程の魔術師相手に、現世の人間を操作するだけでは阻止出来ないのはわかるが、守護者がそのままでなくこうも中途半端に現界するとは。相手は魔術師だというのに、十分に力を振るえないことに何の意味があるというのか。まるでわからない。
 ふと、意識を手元に逸らす。手に持つ剣に映る血に染まったその男は、何処かで見たような、しかし見知らぬ顔。何故だか無性に懐かしく思える。だが、磨耗しきったオレに、その理由を見出すことなど出来はしない。自身の顔すらろくに思い出せないのだ。他人の顔などもっての他だろう。そもそも、例え彼らが生前の知り合いであったとしても、オレのすべきことは変わらない。いや、変われないのだ。
 そんなことを考えている内に、この身体は敵へと向かっていった。守護者となった今、オレの意識は残っていても、それは行動に反映しない。間を置かず、剣を大きく構える。
 相手は傷を抑えて蹲ったままだった。致命傷を与えたとはいえ、まるで反応しないことを疑問に思う。だが、オレがそれを考える意味などない。そのまま、脳のある頭部に向かって剣を振り下ろす。
 瞬間――――
「……士郎……どう、して?」
 相手の口から、そんな声が聞こえてきた。
 ――「シロウ」。それはきっと、この身体の持ち主のことだろう。彼らが恋人なのか、夫婦なのか、それともただの友人なのか――その関係はわからない。だというのに、磨耗しきれなかった記憶が、この男の名に反応する。
 だが、ただの端末に過ぎない身体は、その動きを止めることはなかった。
 先程より不快な音が響く。飛び散る鮮血。剣を通じて、再びあの感触が甦る。
 ――何故か、もう在りもしない筈の心が痛んだ。


 力が抜ける。既に対象を滅ぼした守護者に、現界を続ける理由など無い。オレの意識は徐々に薄れていく。
 次に目覚める時も、また人を殺すのだろう。自身の逃れられない運命に対し、かつての己を呪う。いつか、いつかあの時のあの場所へ、始まりの場所へ。ただそれだけを考え、オレはこれまで人を殺し、これから人を殺す。
 足元を見れば、まだ温かみの残っている女の死体。今更、感傷など無い。だというのに、赤く染まったソレを見るだけで、どうして心が動くのか。だが、今のオレに、それを自答することは出来なかった。
 そして、段々と消えゆく自分。その中で、最後に思う。

 ――さて、今この目から零れ出ている涙は一体、この身体の持ち主とオレ、どちらが流したものだったのだろうか。

 それも、もうわからない。





#03 I don't know whether I'm happy or not.    

 その日、風呂上りに俺は、自室のリビングでノートやら何やら色々広げて、云々と唸っていた。
 右手にペンを構え、逆の手には愛用の電子式卓上計算機。当然、太陽電池なエコロジー。俺は、カタカタとテーブルの上に置かれた電卓を叩く。
「…………あれ?」
 叩く。叩く。何度も叩く。そりゃあもう、壊れるだろといわんばかりに叩いて叩いて叩きまくる。まさにそのスピードは、サーヴァント最速と謳われたランサーをも上回るんじゃないかと勘違いするような速さ。俺の指は、かの魔槍より鋭く、卓上のボタンを穿つ。懲りないくらいに単音の音色を鳴り響かせ、そしていい加減それをするのが億劫になったところで、俺はようやく理解した。
 此処に示された結果は、間違いなんかじゃない。バーサーカーもかくやという程の衝撃が、俺の脳内を一心不乱に駆け巡る。これは。そう。もしかするともしかして――

「――赤、字?」

 ゴッド。
 俺、なんか悪いコトしましたか。


 ふー。とりあえず、のぼせ上がった頭を落ち着かせろ。
 己を叱咤し、最初からもう一度やり直そうとする。俺はテーブルの上においてあるレポート用紙を新たに一枚破り、計算用のメモ代わりにして電卓を打ち始めた。
(えっと……遠坂に返済する宝石代が……あと、二億円で……)
 聖杯戦争時に使われた遠坂の宝石。折半してこの金額というのだから、何とも末恐ろしい。なんでも、切り札の宝石は限り無く純度が高く、おまけにそれは、地中に何百年も埋まっていて魔術に適したモノだったのだとか。おかげで一つ云千万。泣けてくる。ボッタクリだろとか思ったものの、俺には何もいうことが出来ない。だって必ず返すとか言ってしまったんだから。
 くそっ、半分はバーサーカーの所為だろ、なんて愚痴を思わず零してしまう。もしイリヤが家出していなければ、アインツベルンが払ってくれたのだろうか。そんなありえない未来を夢想する俺。でも、無理だろうな。ああ、たまには会いたいよ、イリヤ、桜、タイガー。
 ほろりと涙を零しながらも、引き続き電卓を打って、メモに纏めていく。
(その一部を返す為にルヴィアに借りた金が……七千万だったよな、確か)
 あの時は確か、遠坂が実験に失敗して、多大な金が必要になったのが原因だった。いきなり「士郎。アンタ今すぐ借金返しなさい、八千万だけでいいから」とか何とか言い出したんだったよな。借金してでも借金返せ、なんて言われて、その通りにした俺も俺だけど。
 仕事の雇い主であるルヴィアに相談――勿論、遠坂のことなどおくびにも出さずに、である――したら、何とも気前良く貸してもらった。まあ実際、それを見通してやったんだから、予想通りといえば予想通りだ。さすが、この一年で無駄に凄くなったスキル――心眼(真)。あまりに不憫な苦労経験が、金に関した未来を当てる!
 それにしても、借りた時なんて思わず、これが噂の自転車操業の始まりか、なんて考えてしまった。まあ、それはその時だけで、遠坂からの借金は、結局普段の五十年ローン払いになった訳なんだけど。たたいまライブで大ピンチ、というよりも、ただいまライフが大ピンチ。開放されても、七十歳。どうなることやら我が人生。
 一方のルヴィアへの返済。これにはエーデルフェルト邸で貰う給料の二分の一がそれに充てられている。つまり、俺の給料は実質半分なのだ。まあ、これは仕方が無い。それに元より、エーデルフェルトの給料は元が高いだけあって、それでも十分な額になっている。不満などある筈が無い。少なくとも手取り五十万はいくのだから。
 だっていうのに、そこから遠坂に返す分の三十五万を抜くと……毎月俺の手元に残る生活費は、たったの十五万。遣る瀬無いにも程がある。
 これで二人とも無利息じゃなかったら、考えるだけでも恐ろしい。いや、マジでありがとう。
 ちなみに、元を辿れば百万にも上る給料。その金額に値する業務内容は誰にも秘密だ。一応、執事には執事なんだけど……ごめんな、セイバー。俺、汚れちゃったよ。
 また知らずの内、冷たい涙が頬をつたう。それでも涙を拭って、俺は計算を続けた。

 で、赤字の原因は何だったんだ? とか色々考えて筆を進める内に、忘れていたあることを思い出した。
(…………まいった。今月の給料、ルヴィアの着替えを覗いた所為で一割カットなんだっけ……)
 もちろんわざとじゃない。ほら、アレだ。ふかこーりょくって奴だ、うん。それに、ギリギリのラインで大丈夫だったし。思い出すだけでちょっと赤くなってしまう。……ルヴィア、けっこう大きかったな。桜と同じくらいはあった気がする。遠坂も突っかかる訳だ。まあ、気にするな。おまえには足がある足が。もうニーソは無くとも、黒ストとかで頑張って欲しい。
 と、この辺りで現実逃避を止め、仕方なしに用紙に意識を戻す。
 だが、幾ら紙を見つめたとしても、解決策はまるで出て来ない。一瞬投影品を売り払うという案が浮かぶも、躊躇無くその考えを消す。実は昔、遠坂に騙され、投影した剣を一度だけ売ってしまったことがある。あの時は、さすがに俺の中の何かが崩れていった。硝子の心はブロークンだ。
 だからといって、またそんな犯罪を許容する訳にはいかない。仕方無く、遠坂の仕事を手伝って、今月の返済分を減らしてもらうことにする。よし、そうと決まったら明日から、投影の練習だ。零コンマの世界でアヴァロンを作れないと、命が幾つあっても足りない。
 本当は、あんな人外の魔窟なんて行きたくない。だが無残にも、俺の脳はこれしか方法は無いと告げるのだ。そうだ。俺のハートは、今となっては剣でも砕けぬ鉄の心。いくら恐ろしい場所とはいえ、もう慣れた。だから、何とかなる。何とかなるだろ。うん。俺、強くなったよセイバー。


 それから何だかんだと考え、解決の目処が付いたところで、俺はメモを挟み家計簿を閉じた。
 こうして自分の生活を思い返すと、何をしているのかわからなくなる。
 遠坂とルヴィアの争いに巻き込まれたり、無理矢理魔術協会の仕事を手伝わされたり、暇を見つけては色んなアルバイトに励んだり、たまに幻想のセイバーと会ったり。それが幸せなのか、俺にはよくわからない。わかりたくもない。
 正義の味方。俺はその為に、魔術を習ったのではなかったのか。だというのに、俺はまだ、掲げた理想に何一つとして届いていない。していることは、金稼ぎのみ。というか、あと何十年経とうが、俺のやることは今と何も変われないだろう。だって、五十年返済プランなんだ。
 でも、これだけは言える。胸を張って、確信を持って言える。きっと衛宮士郎は、楽しんでいる。過酷な労働。搾り取られる財。それでも何故だかわからないけど、俺はこの生活を守りたいと思っている。
 手元の家計簿を見る。其処に映るは赤。ありえない数の桁。だけど、負けない。立ち上がって、拳を握る。
 心に一つ楔を刺して、寝室に戻る。そして、ボロボロのベッドに潜りながら、俺は誰に言うとなく静かに呟いた。

 ――さあ、明日も精一杯頑張ろう。


 現在の衛宮士郎の借金総額――残り、凡そ一億九千七百五十二万円。





#04 セイバーの三分間ダッキングクッキング    


「お腹が空きましたね……」
 居間で読書をしていたセイバーは、短針が十を指した時計を見ながら唐突に呟いた。
「士郎の帰宅まで、後三時間程ですか……」
 いつもならば、その程度の時間、お茶請けさえあれば耐えられるセイバーだが、ところがどっこい昨夜に大河とつまみ食いをした所為で、既に衛宮家のお茶請けは切れている。
 ままならないものですね……なんて呟きながら、ぐったりと畳の上に寝転がるセイバー。決して人前では見せない無防備な姿で、愛おしそうな声でまた呟く。
「……お腹が空きました」

 しかし、それから更に数分が経つと、セイバーのお腹は更に餌を求めてくる。
「……試しに作ってみましょうか」
 聖杯戦争が終わってからはや半年。既に戦いはなく、サーヴァントとしての自分は必要とされていない。それ故に、セイバーは主である遠坂凛の生活のサポートに回り、その一環として凛から家事全般を手習っていた。そうして基本的な道具の使い方を覚えた彼女は、遠坂邸でコツコツと料理の練習をしていたのだ。主の教え方が良かったのか、それともただ彼女にその才があったのかはわからない。だが、セイバーは凛から教わったことをどんどん吸収していき、どんどん腕前を上げていった。
「ただ、一人で料理をするのは初めてなのですが……まあ、今の私なら大丈夫でしょう」
 それは、確かな修練を積んでいる彼女だからこそ、過大でも過小でもない評価を自身に下せる彼女だからこそ告げられる科白。明確な意思を露にしながら立ち上がり、その足を台所へと進めていく。
 作るもの――否、作りたいものは端から決まっている。それは、かつて食したお好み焼き。正確にはお好み焼きになってしまったもの、だ。聖杯戦争時、大河が作ったそれは余りに食せぬものであった。彼女曰く、かに玉。しかし実際は、お好み焼きの出来損ない。だが、食の大切さを知っている彼女とって、出された食事を残すことなどあまりに不可能だった。
 しかし、しかしである。それ程まで食に対し探究心を持つ彼女が如何して、間違った味を覚えることを認めることがあろうか。そのようなことは、彼女の誇りが許さなかった。
「ならば、作りあげてみせましょう―――」
 故に、正しい味を覚える為、彼女は立ち上がったのだ。士郎愛用のエプロンを拝借し、恥じらいながらもそれを着用する。そして、どこか間違った気合と共にセイバーは戦士の咆哮を上げた。
「――本当の、お好み焼きとやらを……!!」


 時刻は既に午後一時を過ぎている。衛宮士郎はただいまと声を上げながら、大慌てで自宅の門を開けた。素早く手洗いうがいを済ませ、セイバーの待っているであろう居間に駆け込む。
「悪いセイバー、ちょっと遅くなった。すぐ昼飯作るから――」
 と謝りながら、急いで昼食の準備に取り掛かろうとした士郎が見たものは、こくこくはむはむと満足そうに食事を摂っているセイバーの姿。普段見慣れた光景であるにも関わらず、無性に違和感が湧いてしまう。
「お帰りなさい、シロウ」
 セイバーは呆然とその光景を眺めていた士郎に気付くと、一端箸を置いて声を掛ける。
「――って、もしかして自分で作ったのか、それ?」
「ええ。自分でいうのもなんですが、それなりの出来だと思います」
 えっへんと小さく胸を張るセイバー。
 生前は王としてただ剣を振るうことしか出来なかった身であった。それがどうだ。今や、彼女はその手でお好み焼きを作り上げたのだ。その手に、聖剣でなく、ただの包丁を握って。ああ、それのなんと喜ばしきことか。
 ――ベディヴィエールよ。私は未だ聖杯を手にすることは為せておらぬが、ブリテンの食文化を救う手立ては手に入れることが出来たぞ!
 セイバーの胸中は恐らく、雑な料理から解放された国民の喜ぶ顔で満ち溢れているのだろう。そのような感慨深い雄叫びがまるで聞こえてくるようだった。
 一方、士郎の心境は驚き一色に染まっている。セイバーが一人で家に居る間、料理の勉強をしていたのは知っていたが、それはクッキーやケーキといった洋菓子の類だろうと思っていた。それがまさか、食卓の主食になれるようなものだったとは!
「それにしても……セイバー、かに玉なんて作れたんだ。遠坂にでも教えてもらったのか?」
「……へ?」
 思いもよらぬ士郎の言葉に、セイバーの口がぽかんと開く。
 だが、そんなセイバーの反応に気付かずに、「ちょっと一口貰うぞ」と士郎は一言。衛宮家料理人としての血が騒いだのか、魔術行使時に勝るとも劣らない集中で皿に向かう。瞳を閉じて、確かめるように一噛み二噛み。真剣な顔でそれを味わう。
「――うん、美味しい。ちょっと味付けがおかしいところもあるけど、このかに玉なら十分食卓に出せるな」
「……い、いや、あの、コレはおこのみ――って、え……か、に……玉……?」
「ん? そんな心配しなくても大丈夫だぞ。十分美味しいよ、このかに玉。いや、初めてにしては凄いな、セイバー。かに玉だぞ、かに玉。藤ねえとは大違いだ」
 我が子の成長を喜ぶかの如く、笑みを浮かべながら誉める。しかし、「こうも上手く作られるとちょっと悔しいな」なんて言いながらはにかむ彼の笑顔を見ては、さすがのセイバーもただこれだけしか呟けなかった。
「……わ、私もやれば出来るんですよ」

 ――ぎゃふん。





#06 我が為に腹は鳴る    

 ぐぅ〜きゅる〜〜。きゅるきゅるぐぅ〜。
 ぐうぐうお腹が鳴りました。

「うーん、いい汗かいたわ。もう、お姉ちゃんお腹ペコペコだよぅ!」
「ええ。そうですね。そろそろ頃合です。お昼にしましょう」

 衛宮の家には猛獣二匹。手綱を掴む御主人様は、可愛い彼女とお出掛け中。鎖を放たれ暴れるソレ等は、餌を求めて何処へ行く。ああ、居間へ行く。

「……ねえ、セイバーちゃん。ここにある士郎のお弁当、一つにしか見えないんだけど」
「……ええ、大河。確かに私の目にもそのように映っています」

 ドデンと鎮座するそれは、とても巨大な四角い何か。二匹の為に作られた、御主人様のお手製弁当。
 だけれどここで大誤算。今日の猛獣達の胃は、何故だかいつもの容積二倍。二匹分の筈なのに、ソレ等にすれば一匹分。

「……」
「……」

 ぐぅ〜きゅる〜〜。きゅるきゅるぐぅ〜。
 開幕を告げる鐘が鳴る。戦争勃発、闘え闘え猛獣達よ。それを手にするはただ一匹、飢えた獣が咆哮す。

「セイバーァァァアア……!!!!!」
「タイガーァァァアア……!!!!!」

 鐘が告げるは誰が為か。いやいや、答えは唯一つ――――腹が鳴るのは我が為や。





#07 春のうらら    

 ――四月。心塞がる寒さは去り、温かな日々がまた訪れた。佇む陽の光は穏やかな風と共に、ここ冬木を明るく染める。空に舞い散る桜の花びらは、新しい季節の到来を訴えていた。春となった。透き通る程青い空。仄かに蒼が混ざり合ったその色は、見上げる者の心を静かに奪う。空を眺めながら歩く私もまた、その情景に心奪われた一人だったのだろう。
 そんな新都からの帰り道。私は荷物を片手に冬木大橋を渡っていた。今日は、新しい本を仕入れにヴェルデの本屋まで行ってきたところだった。あと少しで正午を回るので、恐らく屋敷に着く頃には士郎の手による昼食は出来上がっていることだろう。午後のお茶請けにと本屋の帰りに買ったヴェルデの大判焼きを土産に、帰路である満開の桜が並ぶ海浜公園へと入る。
 その景色は、春の穏やかさを示していた。初めて桜というものを見た時、その美しさと儚さに溜まらず見惚れたことは、懐かしい思い出だ。ただ、舞い散る桜の花が、私の長髪に張り付くのが頂けなかった。しかし、そんな私の思いには構いもせず、横を流れる未遠川には薄紅色の花びらが散っている。
 暫くの間それを眺めていたが、正午のチャイムにより帰宅途中ということに気が付いた。そしていつの間にか止まっていた足を動かそうとしたところで、
「……?」
 遠くから聞こえる、微かな音に気が付いた。それは泣き声だった。寂しさで包まれた声。誰も傍にいなく、まるで叫ぶように心の底で誰かを求めているその声に、ふとかつての自分を思い出した。涙に咽ぶ音は止まない。
 視線を音源の方へ向ければ、川沿いの桜木の下に、一人ぼっちで泣いている少女の姿があった。迷子だろうか。何にせよ、此処で無視するのも寝覚めが悪い。帰りを待っているサクラ達に申し訳無いと思いつつ、進路を変えその桜の木へ向かった。
 年頃はきっと五、六歳程度だろう。私では一生着る機会の無いような、可愛らしい装飾のワンピースに身を包まれている。だが、その表情は明るい服装とは正反対の様相だ。少女の許に辿り着いた。
「どうかしましたか?」
 腰を落として彼女に尋ねる。こんな時、自分の身長が恨めしい。こうして屈んでも、少女の顔を見上げることは出来ないのだから。
 私が声を掛けたことには気付いたものの、彼女はただ泣く一方で、何も言おうとしなかった。無理に聞き出すことも出来ず、如何しようも無くなった私は、助けを求めるように辺りを見回してしまう。だが、誰もいなかった。サーヴァントとしての視覚や聴覚を以ってしても、誰かを探す姿も声も届かない。迷子ではないのだろうか?
「む……」
 正直、知り合い以外の人間に慣れていると言い難い私にとって、子供の相手というのは十分苦手の範疇に入る事柄だった。士郎がいればきっと何とかしてくれたろうが、私には如何すれば良いのか判断が付かない。此方が泣きたい気分になってくる。情けないことに、英霊である私が一人の少女に押されているのは紛れも無い事実だった。
 そうして一、二分の間オロオロと途方に暮れていたところで、ようやくその娘が口を開いき、事態は一気に進展を迎えた。
「ぼ、ひっく……ぼう、しっ……」
 ――ぼうし。それは言葉通り、帽子だろう。もしかしてと思い、もう一度辺りを見回す。対象は人でなく帽子。公園を見、川を見、そして頭上の桜の木を見たところで――私は少女が泣いている理由を悟った。桜の木の枝に白い帽子が引っ掛かっている。それは私にしてみれば楽々と手に届くが、少女にしてみればどれだけ無理をしようが手に取ることは絶対に不可能な高さに位置していた。
「一応お訊きしますが、アレは貴女の帽子でしょうか?」
 ほぼそれに間違いはないだろうが、念の為に確認をする。
「おねえ、ちゃんにっ……もらった、大切なの」
 答えは涙ながらの肯定。確かめたところで、私はその帽子に手を伸ばした。いつもは嫌っているこの身長だが、こういう時は役に立つ。まあ実際は、こういう時にしか役に立たないと言った方が良いのかもしれないが。
「はい、これで良いですか?」
 出来るだけ優しくした笑みを作り、彼女に差し出す。自分の手元に宝物が戻ったことで、少女の目から溢れ出ていた涙は止まった。だが、その顔には笑みが戻らない。一度生まれた哀しみは、そうそう消えないのだろう。また途方に暮れそうになるが……そう、こんな時、士郎やサクラならば――
「――食べますか?」
 そして、私はその考えを実行に移した。お土産として買ったヴェルデの大判焼き。それが入った箱の中から一つ――甘いカスタードを手に取り、少女の前に差し出す。サクラ達への土産として買ったものだが、きっと二人は許してくれるだろう。
「……くれるの?」
「ええ、どうぞ。沢山ありますから」
 大判焼きを手渡すと、少女の様子は段々と笑顔へと変わっていった。その際に触れた手は想像以上に小さく、それでいて内から包むような温もりに包まれていた。姉しかいなかった私が言うのも何だが、妹という存在はきっとこんな可愛らしいものなのだろう。少しだけ。ほんの少しだけではあるが、姉さま達の気持ちがわかった気がする。
「さあ、もう大丈夫ですか?」
 感傷は捨て、慰めるように彼女の頭を撫でる。自然とそれをした自分に、少しばかり驚いた。頬を赤く染めながら彼女は頷く。擽ったそうに私の手に身を任せる少女からは、もう寂しさは見られなかった。涙はもう止まっている。安心した。
 後は、彼女の姉にまかせよう。赤い目をした妹を見て、彼女の姉は少女を慰めるだろう。姉とは、きっとそういうものだ。昔はわからなかったが、今ならそう思えた。
 ようやく心配事も去ったところで、私は静かに立ち上がった。いい加減に帰らないと、サクラ達に余計な心配を掛けてしまう。私を見上げている少女に、別れを告げる。
「それでは、さようなら。今度からは、その大切な帽子を失くさないよう気をつけて下さい」
 そうして、深山町がある方向に足を進める。彼女も「バイバーイ」と言いながら、私とは反対に大橋へ向かっていた。背後から足音が遠ざかっていく。暫く歩いたところで、そっと振り向いた。少女の手の中には一つの大判焼きと白い帽子がしっかりと包まれていた。その絵が、少し温かかった。
 それを暫く見つめ、彼女が橋に辿り着いた頃にようやく、足を動かすことを思い出した。正午はもうとっくに過ぎている。再び帰路へ付こうと、元の進路へと戻る。
 そしてその途中、視界の隅で少女が唐突に振り向いた。視線の先に未だあった私の姿を見つけると、嬉しそうに微笑み、その小さな口を精一杯開け、小さな声で精一杯叫んだのだ。
「――おねえちゃん、背が高くてカッコいいね! わたしもオトナになったらおねえちゃんみたいになりたい!」
 微笑を満面の笑みに変えて、少女は言った。辺りを気にもせず、声を響かせた。その心には、きっと一片の翳りも無い。言い終わると、空高く浮かぶ太陽に照らされた橋を、彼女は手を振りながら走り去っていく。
「――」
 少女のその無垢な笑顔は、本当に温かかった。言葉よりも、心が温かかった。
「……ありがとうございます」
 小さく、しかしはっきりと、私は呟く。彼女の癒すような言葉に、私の顔は笑みに包まれていたに違いない。ふと、横に拡がる桜の木々を眺める。小さな花びらは暖かな風に吹かれ、空を舞っていた。その内の一枚が、眼鏡のレンズに張り付く。視界が薄紅色に染まる。それを見て、静かに思った。

 ――ああ。今年の春は、より良い季節になりそうだ。





#09 きみとぼくの失くした世界    

「あれ――衛宮、くん?」
 喫茶店で紅茶を飲みながら、何となく外を眺めていた俺の耳に、何処かで聞いたことのあるような女性の声が入ってきた。え、と思いながら振り返る。目に入ったのは、赤を基調とした落ち着いた服装。戸惑いながら視線を上げる。そして、見えたその先にあった顔は――
「――遠、坂……凛?」
「……ええ、久しぶりね」


 遠坂凛。それは学園時代、俺が憧れていた女性の名である。
 彼女はその抜きん出たルックスと優等生ぶりから、学園中にその名を轟かせていた。それ故、俺みたいに憧れている者も多く、噂によれば彼女に告白した人数は百をも超えるらしい。実際に好意を寄せていた人間はその二倍はいたそうだが、遠坂があまりに完璧すぎる為、おいそれとは近づき難かったとか。かくいう俺もその一人である。まあ……元々恋愛感情云々というより、アイドルに憧れるという感じに近かったんだけれども。
 それでも高校最後の年に同じクラスとなったことで、向こうには……まあ、顔くらいは憶えられたんじゃないかと思う。彼女と犬猿の仲であった一成とも親しかったこともあり、二人のいざこざに巻き込まれたこともあったし。
 で、こうして声を掛けられたってことは、彼女の記憶に衛宮士郎って人間が残っていたって訳であって。ああ、憶えていてもらえたんだなあと、感涙極まりない気持ちで一杯だ。おまけに昔より美人になった遠坂と、こうして一緒にお茶を飲んでいるなんて夢みたいで、更に嬉しさがこみ上げるてくる……筈、なんだけど……。
「あーもう、ホントに頭にくるわルヴィアのヤツ。コッチがちょっとポカやっただけだっていうのに、何が『あら、ミストオサカ。相変わらずココ一番で失敗なさりますのね。でも、ご心配なさらずに結構ですわ。貴女の失敗は元よりワタクシの予定に組み込まれていますからオホホ』よっ……!」
 かつての記憶とまるで違うっていうのは、俺の気のせいなんだろうか。というか、遠坂ってこんな性格だったっけ?
「――って、衛宮くん聞いてる?」
 あまりに大きなショックだったのか、幾許か呆けていた俺の顔を、遠坂は不思議そうに覗く。変わったように思えても、僅かながらに少女らしさを残したその表情は、嘗てとまるで変わらない。いや、それ以上に綺麗になっている。
「……え、あ、うん。聞いてる」
 赤くなっているだろう自身の顔を少し憎らしく思いながら、俺はただそう答えることしか出来なかった。

「それじゃあ、今度は衛宮くんの番ね。今は、何しているの? 確か進学はしなかったわよね、貴方」
 それから暫くの間、イギリスにおける彼女の生活を聞いていると、ふと遠坂がこんなことを訊ねてきた。その言葉に他意は無いのだろうが、正直その質問は俺にとって望ましいものではない。現在の俺の状況は、決して誇れるようなものではないからだ。
「……今は、その……フリーター、かな」
「え? フリーターって、就職はしなかったの? 学園で斡旋してくれた筈でしょう」
「あ、うん。それはそうなんだけど……」
 予想通り、俺の回答に対し彼女は驚愕を示していた。だが、何かに気が付いたのか、もしかしてという顔で遠坂は訊いてくる。
「……やっぱり、目指していることとかあるの?」
 が、予想外の質問。え? と思うも、その言葉の意味を理解し、脳裏に廻らす。
 目指していること……?
 俺の目指していること。
 俺の目指している、理想は――
「――いや、特に無いぞ」
 大体、そんなものがあったら、俺はこんなのん気にフリーターなんかしていないだろう。まあ、今の生活がのん気という訳ではないんだけど。
「え?」
 だが何故か、その言葉に対し彼女は僅かに目を丸くした。同時に発せられたその呟きが、どこか震えているように見えたのは気の所為だったのだろうか。
「というよりも、正直よくわからない。……俺は自分が何をしたいのかわからないんだ」
 そう、俺が求めるユメ。それは、一体何なのか。心の奥底から願うような、そんななりたいものがあった筈なのに。何故かそれがわからない。今の自分はただ心が空っぽで、まるで心ががらんどうのように――そう感じるのだ。
「だから、今は……それを探しているのかもしれない」
「……そう」
「って、悪い。なんか変なこと話して」
「……別にいいわよ。私も色々愚痴を聞いてもらったから」
 そう言って、沈んだ空気を振り払うかのように、彼女はカップに口を付ける。そしてそれを飲み終えると、隣の椅子に置いてあったハンドバックを手にし、席を立った。
「それじゃあ、急だけどわたしはそろそろお暇するわ。今日中にロンドンに発つ準備をしないといけないから」
 学園時代とは違って真っ直ぐに下ろしてある髪を整え、彼女は退席の意を告げる。
「そうか……じゃあな。向こうでも頑張れよ」
「衛宮くんもね。機会があったら、またお茶でもしましょう」
 口元に笑みを浮かべてそう言う遠坂。社交辞令の台詞なんだろうが、それを貰えただけ少し喜んでいる自分に、内心苦笑する。
「ああ、遠坂も疲れたらこっちに帰ってこいよ。慣れない異国なのに、あんまり一人で無理してると大変だからな」
 だがその言葉に対し、遠坂は眩しそうに目を細め、
「……失くした筈なのに変わらないのね。いえ、むしろ変わったのはわたしの方か」
 そう、静かに呟いた。その視線の先に映るのは何処なのか。遠くを見るようなそれは、ただ失くしたモノを見るような瞳だった。
「へ……?」
「ううん、何でもない。ただの独り言よ」
「……まあ、遠坂がそう言うなら」
 まるで俺の勘違いだったかのように、今の彼女の表情からは、先程の儚げさは払拭されている。
「ええ。それじゃ、今度こそさよならね」
「ああ、じゃあな」
 別れの言葉を述べ、テーブルから離れていく彼女。ただじっとそれを見つめる。だが、不意に彼女は店の出口で足を止め、此方に振り返った。一瞬、視線が交差する。そして何故か彼女は泣きそうな顔をして何かを呟くと、踵を翻し去っていった。
「……え?」
 思わず口から零れる。だって、そうだろう。あんなにも泣きそうな彼女の顔は今まで見たことが無い。あんなにも泣きそうな彼女の声は今まで聞いたことが無い。
 何故、彼女はあのようなことを言ったのか。何故、彼女はあのような顔をしたのか。そんな疑問が浮かびながらも、俺の脳裏には先程彼女が呟いた言葉が貼り付いている。
 知らずの内、既に中身の冷めているカップを手に取る。

“――ゴメンね、士郎”

 彼女が最後に残した言葉。頭の中でただそれだけを繰り返しながら、温い紅茶に口を付けた。


 ぼくは奪われ、きみは捨てた。
 どちらも失くしただけなのに、そこへと至る道は違う。
 失くしたことを知っているきみと、それを知らないままのぼく。自ら選んで捨てたきみと、選択の余地なく奪われたぼく。一体、どちらが辛いのだろう。
 それは、誰にもわからない。ただ、言えることは一つだけ。

 失くしたモノを知りながら、きみは心を偽りで埋め。
 失くしたモノに気付かずに、ぼくは心を虚ろにし。

 ――このまま、ずっとずっと生きていく。





#10 セイバー・イン・ザ・ダーク    

 無の景色に光が走る。そして、己が全てを震わす衝撃。同時に、既に知っている聖杯戦争の知識が私の中に流れ込んできた。アルトリアという英霊がセイバーという容れ物に納められ始める。例え騎士の誇りを失おうが、この身は唯一の剣であり、それ以外の何者でもなかった。……そう、唯一の剣。主の為の、ただ一つの剣でしかない。ある時は国に。ある時は冷酷な魔術師に。そしてある時は――愚直な程真っ直ぐな少年に、私は仕えた。
 貪るように衝撃が身体中を回り、暴虐な力が私を貫く。この感覚は、一度体験したものだ。最初の召喚とは違う、乱暴な呼び声。ただ、魂の内から這いずり出たような求心の叫び。そう……漸く、漸く彼に会えるのだ。
 だが、私は彼の顔を見て何を言えばいいのか。この目に最後に残ったものは彼のあられもない姿のみ。この手に最後に残ったものは彼の首を斬り裂いた感触のみ。あの神父の誘いに対し、己を曲げず心を折らずただひたすらその道を貫いた彼を、私は自らの剣で殺したのだ。彼の剣となる、と誓った筈の私が。
 そして絶望の中、私は聖杯を手に入れた。その後、冬木の地がどうなったのかはわからない。ただ気付けば、わたしは黒き泥に塗れたまま、こうして座へと囚われていたのだ。何度も多くの場所に呼び出され守護者としての仕事を行った。それでも、あの日変わった私の心は、もう動くことは無かったのだ。
 だから、くすんだ私の心に残っているものは、彼の死と共に抱いたただ一つの願いだけだった。彼を――彼の命を守る。ただそれだけが、私に残された願い。私の求めたユメだ。その為ならば私は、彼すらも騙すだろう。
 ――そうだ。守ると決めた。二度と失わない為に、守ると決めた。例えそれが彼の意に反したことだとしても、彼に害するモノ全てを屠ると決めたのだ。だから、彼を守る為に聖杯戦争に関わる者を皆、この血に染まった黒き聖剣で滅ぼす。かつての戦争で共に戦った彼等にも、私は躊躇わず剣を振り下ろそう。
 ああ……貴方は私を恨むだろうか。憎むだろうか。全てを救うと、正義の味方になると誓った貴方の前で、それを知っている私が、貴方の守るべき理想を壊すのだ。貴方の理想を貴いと思った自分が、壊すのだ。貴方がそれに苦しまぬ道理は無い。
 だけれども、それでも私は守ることだけを願うしかない。その未来に彼と違えようとも、私は彼を死なせる訳にはいかないのだ。それだけが、私に残されたたった一つのユメ。座に囚われた私が見る、終わりのないユメなのだから――


 そして、無の深淵からその世界は現れた。私が待ち望んでいた世界。眩い光の中、彼の身に迫り来る魔槍を渾身の力で弾く。引き下がる槍兵から、己が主を庇うように前に立つ。外で待ち構えていることを確認すると、私は背後に振り返った。
「――」
 そこにあるのは、懐かしい姿だった。互いの視線が絡まる中、一瞬の無言を間に置いて、私は口を開く。何を告げるのかなど、考える必要は無い。これは、いつからも――いつまでも変わることのない儀式なのだから。故に、私はただ紡ぐ。かつて発した言葉を、再び。かつてとは違う決意を、かつてのように胸に抱いて。
「――問おう。貴方が、私のマスターか」
 何をしてでも守ると決めた。それが、私の誓い。


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