旅に出ようと思うことに理由など無いように、故郷に帰ろうと思うことにも理由など無い。人の世に「望郷」という言葉があることからもわかる通り、故郷を遠く離れた人間は記憶の底の思い出と共にかつての居場所を顧みてしまうものだ。
 だからなのだろう。
 久しぶりに冬木へ帰ってみよう。ふと、美綴綾子はそんなことを思った。


ノスタルジックトレイン


 プシュウ、という機械的な音と共に、停止した電車のドアが開いていった。そちらに眼をやるが、下りる者も乗る者も誰一人いない。そんな寂しさを含む光景を眺めながら、彼女は自分がこの席に座っている理由を考えた。
 きっかけは七年前の夢を見たからなのだろう。まだ二十にも満ちていなかったあの頃。今の自分が青春と呼ぶあの日々を綾子は夢で見た。穂群原学園という懐かしい名前が、彼女の心に浮かんでくる。
 高校最後の年は、何かと印象的な一年だった。その前の冬、多くの嫌な出来事があった。だからこそ、次の年はそれを弾き飛ばすように、最後の高校生活を満喫したのだ。二人、学友が欠けていたが、それでもその年は楽しかったと綾子は言えた。
 そして迎えた卒業。三年間過ごした学園に別れ、合格した大学へと進学する。そして、それと共に彼女は冬木を飛び出した。
 それからの四年間は、あっという間であった。全国から集まった見知らぬ人間達。新しいコミュニティの中で、新しい関係を築き上げていった。その間、高校時のクラスの集まりや成人式などもあり冬木の友人達と連絡は取り続けていたが、綾子の生活の中心は既に新しい環境に切り替わり、そのようなイベントが無ければ直接会おうとすることなど滅多に無くなっていった。
 大学を卒業すると同時にその生活を終え、就職という新たな一歩を踏み出した。社会の一員となって、身体をスーツで固め、大勢の人間の中で生きていく。それは、悪いことではない。彼女は別段、特別なモノになりたいと思ったことも無く、ただ自分らしく生きられれば良かった。自分の選んだ仕事にも満足しているし、その友人関係も幸運なことに恵まれている。武道も未だ続け、その関係で恋人と呼べる人間にも出会った。彼との結婚なんてものはまだ考えたことは無いが、その男との付き合いは十分に順調。学生時代のように馬鹿笑いをすることは無くなったが、綾子は今の社会人としての生活に不満は無かった。
 だから結局、今こうして彼女が電車で揺られているのには、本当に理由など無い。疲れたからでもなく、寂しくなったからでもない。ただ夢に見て、ふと思い立っただけだった。
「……冬木までまだまだ、かな」
 考えるだけ無駄ということがわかると、意識を外に向ける。窓の外に移る停車駅の看板を見て、綾子はそう呟いた。休日前の金曜に休暇を取ったこともあり、車内には人はあまり見当たらない。それも午前中ともなれば尚更だった。
 アナウンスが終わり、ピーと駅員の笛が鳴る。それに少し遅れて、出入り口のドアが閉まった。そうして発車。乗客の少ない鉄の箱は、ゆっくりと次の目的地へ向け動き出す。始めは億劫に。それから段々速く。ガタゴトと音を立てて鈍行電車は走っていき、景色は流れるように過ぎていく。ゆらゆらゆらゆら。揺り篭のようにオンボロの座席が揺れる。それが彼女を、染み渡る程心地好い気分にさせた。
「……ほんと、こんなゆっくり電車に乗るのも久しぶりだね」
 呟きは風の音に混じり、遠くの空へと飛んでいく。少しだけ開いている窓は、喋るように電車に揺られていた。ゆらゆらゆらゆら。ガタゴトガタゴト。人の声の聞こえない世界で、無意味に合う二重奏。電車は次の駅を目指して走り続ける。
 それを聞きながら、彼女は瞼を閉じて少しだけ眠った。

 ガシャンという音が、耳に届く。もう何度も聞いたドアの閉まる音は、やはり変わらないものだった。回数など数えていなかったが、恐らく十では足りぬだろう。彼女は少しだけ固まった全身を伸ばしながら、そんなことを考える。
 電車は再びゆっくりと動き出し、前へ前へと進んでいく。車内のアナウンスから車掌が次の駅の案内を告げる声が聞こえてきた。先程までアナウンスをしていた人物とは違うようだった。少しだけ間延びした声は、どこか違和感がある。綾子はそれを聞きつつ、手元のバッグからペットボトルのお茶を取り出し、蓋を開けた。そうして口に含めば、既に温くなった緑茶が彼女の咽喉を潤していく。液体を飲み込む音が、やけに近く感じられた。
「あれ、メール……?」
 ペットボトルを鞄に戻すと、そこへ一緒に入れておいた携帯電話が自己主張をしていた。外側のディスプレイでは、メール着信を示す色がテンポ良く点滅している。ぼうっとしていたから気が付かなかったのか、それとも電車の振動に紛れてしまったから気が付かなかったのか。どちらかはわからぬが、ともかく綾子は携帯電話を手に取り開き、新着メールの画面を覗く。
 それは、彼女の恋人からのものだった。今日、帰省することは彼に告げてある。何かと思いつつ彼女がメールを開くと、そこには「もう着いた?」とだけ書かれていた。綾子は「まだ」という由を返信し、この短すぎるメールをもう一度眺めた。確かに彼は絵文字を使わないが、それにしてもこんな単調な文を送るような人間ではない……などと考え、少しして今日が平日ということに気が付く。彼はむしろ気になったからこそ忙しい仕事中に無理して送ったのだろう。そうわかると、彼女は少し可笑しく思えた。
 となると、今すぐのメールの返信は期待出来そうにないだろう。綾子は再び携帯電話をバッグに戻す。そしてまた外の景色に意識を向けながら、ゆらゆら揺れる座席に身体を預けた。少しだけ見覚えのある風景が、混じりあうように流れていく。電車は走る。子守唄のように一定のリズムで、ガタゴト音が鳴っている。普段ならばただ通り過ぎるだけのそれが、今は素直に耳に残った。
「……あと、ちょっとか」
 冬木まで、あと二駅だった。

 構内から駅前へ出ると、綾子は周辺をぐるっと見回した。街並みは色々と変化しているが、それでも彼女にとってはどこも懐かしい。それと共に、聞こえてきた辺りの人の賑やかさも、やはり昔を思い出させた。風に乗って聞こえてくる周囲の声が、とてもしっくりくる。賑わいはどの街でも同じことだというのに、ただ故郷というだけで彼女にはその雑踏が特別に見えた。
 最後に冬木へ戻ったのは実に二年半も前のことだ。綾子は、何とも言えない感慨に包まれる。かつて冬木を出たときも、この駅から旅立った。電車に揺られながら、己はこれからの新生活を夢見るような思いに包まれていた。懐かしさと共に、彼女はそんな思い出を懐古する。
 一通り新都を眺め終わると、綾子は左腕に嵌めた時計を見た。十二時二十分。電車に乗っている間、既に正午を越していた。どこかで昼食を摂ろうかと思ったが、折角なので自宅で食べることにする。実家にはそもそも帰ることすら連絡していないが、まあ何とかなるだろう。そう心の中で呟きながら、今日の帰郷が本当に唐突だったと今更のように彼女は思った。
 そうと決まれば話は早く、彼女は手に持っていたバッグを肩に掛ける。移動手段は徒歩。バスを使ってもよいが、久しぶりということもあり綾子は懐かしい風景にのんびりと浸りたかった。そうして、「よし」と呟いて気持ちを切り替え、実家へ足を進めようと動き出したところで、
「――」
 視界の端の端に映った懐かしい後ろ姿に眼を凝らした。
 赤茶の髪の随分と背の高い男性。藤色の綺麗な長い髪を持った豊満な女性。そして、その間で、二人に手を握られている活発そうな小さな少女。その光景はきっとどこにでもあるような普通の家族で、どこにでもあるような普通の幸せだった。
 その羨ましくなるくらい暖かいモノに、自然と口元が緩んでしまった。自分の苦手なあの長身美人はいないことだし、少し声を掛けてみよう。彼らの結婚式以来だから三年ぶりの再会だ。そのようなことを考えながら、彼女は気付かれないようにその家族に忍び寄る。
 振り向いた彼らの顔はきっと昔と変わらない笑みに包まれているだろう。そう綾子は思った。滅多に見ることが出来なかった彼等の笑顔。それを、何故かよく覚えていた。だから、こんな幸せそうな後ろ姿を見るだけで、今の彼等が浮かべている表情が笑顔だと、昔と同じ笑みだと彼女は思えたのだ。
 そうして、勝手に湧いてくる高揚を抑えながら、綾子はそっと近付いていく。
(ま、とりあえずあの娘の名前でも教えて貰いますか――)
 そんな彼女の顔に浮かんでいる笑みもまた、きっと七年前と変わらなかったのだろう。
 気紛れのように起こった偶然。いつまでも変わらない冬木の青空が、懐かしき再会を祝福していた。


 旅に出ようと思うことに理由など無いように、故郷に帰ろうと思うことにも理由など無い。その衝動は本当に唐突に生まれるものであり、そうであるからこそ理由無く生まれたそれは儚い。だから、人はいつでも故郷へと続く電車に乗るのだ。その終点にある過去への懐かしさを求めて。
 ノスタルジックトレイン。それは人の心から溢れ出る、郷愁の思い。


[SS]