0/

 これは一つの物語。
 ただひたすらに理想を求め、ただがむしゃらに前進した。振り返ることも、折れることも是としなかった。自己を捨ててまで、目に見える他人全てを救おうとした。気味が悪いと言われ、化けモノと罵られても止まらなかった。叶うことが無いと理解していながら、その理想を追うことを止められなかった。その道の行き着く先が破滅であると気付いても、歩みを止めることが出来なかった。
 そんな、愚かで貴い男の話である。


/Myself to Kill

 ――魂が揺れる。
 いつの間にか発生していたオレの意識が、その凄まじい衝撃によって覚醒した。懐かしい感覚。月から地球へ堕ち逝くような勢いで、暴力的な力が自身を引き摺り下ろしていく。だが、オレはただそれに身を任すだけ。そう、抗う理由などどこにも無い。ああ……一体、どれ程この時を待ったろうか。今の自分に時間という概念は無いというのに、この瞬間が、信じられぬような悠久を超えて訪れたように思える。
 オレはまたきっと、彼女の許へ行くのだろう。既に名も忘れてしまった、魔術師たる少女の許へ。この手に彼女の宝石がある限り、それは不変だ。自分はかつて彼女に喚ばれたエミヤであり、今も、そしてこれからも喚ばれるエミヤである。過去の記憶は既に摩耗しているが、英霊の座に刻まれた多くの記録がそう物語っている。
 だが、たとえ自身が摩耗しているといえども、この願いだけは忘れることなど出来なった。延々と見せ付けられた争いを以ってしても、それだけは消すことは出来ない。いや、むしろ延々と繰り返されたからこそ、その願いは生まれ、失われることはかった。そして悠久とも思える一瞬を経て、オレは遂に辿り着いたのだ。掲げた剣を摩耗させ、それでもここに救いを求めた。全てはたった一つの願いの為に。己の消失の為に――自分自身(えみやしろう)を殺す。その機会を、ようやく掴んだのだ。
 未だ落下は続く。その間に、忌々しき戦争の情報がオレの知識に組み込まれていく。これからオレは行くのだ。あの時へ。前とは違う弓兵というカタチに容れられて、あの泡沫のような日々へ。そして、きっと再び邂逅するのだ。あの、美しい剣の少女に。
 昔、ある出会いがあった。摩耗した今でも、それだけは思い出すことが出来る。月の光に濡れていた金砂の髪も、青く澄んでいた碧眼も、オレのくすんだ心の底に刻み付けられている。銀の鎧に包まれた誇り高き騎士。誰よりも凛々しく強かった少女。その姿を、その在り方を――オレは何よりも美しいと感じたのだ。だから、それだけは忘れ去ることなど出来なかった。
 そうして流れに身を任せ意識を閉じれば、脳裏にもう消え去ってしまった過去の情景が巡る。愚かだった昔の自分。愚直なまでに理想を貫こうとした、殺すべき自分。その磨り減り無くなった記憶は、記録として開かれる。彼女の許に辿り着くまでの間、薄ら浮かぶかつての記録を背景に、今度こそ願いが叶うよう、オレは信じてもいない誰かに祈った。


1/

 衛宮士郎の始まりはあの燃え盛る大火の景色だが、エミヤシロウの始まりを問われれば、きっとこの時が始まりになるのだろう。がむしゃらに走っていた彼が、それが出来ると、それしか出来ないと真実を悟った時。それは、あの黄金の朝焼けから始まった。そこで別離した剣の騎士と同じように、己が信じる道を突き進む。後悔も未練も無いその貴い在り方を、彼は貫こうと決めた。
 正義の味方。かつて父が求めた理想。誰もが幸せになるその願いへ至る道を、彼は進むと決めたのだ。たった二週間。されど、その泡沫のような彼女との日々は、彼の心に深く刻まれている。あやふやに彷徨い歩いていた少年は、少女との出会いの果て、別れの果てに、
“――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている”
 己が思いを再確認し、その進むべき道を見定めたのだ。
 そしてその一年後、妹のような少女の死を切っ掛けに、彼は遂に定めた道を歩み始めることになる。かつて父の死の間際にその理想を誓った彼は、再び迎えた家族の死を前にもう一度誓った。誰よりも何よりも、ただ己に誓ったのだ――


/Try a Dull Sword

 ピシ、と足元の枯れ葉から罅割れた音が聞こえた。四季など知らぬと言わんばかりに、ここには未だ春の芽生えが無いようである。二時間も掛け長い道のりを歩いてきた俺の眼前には、日本に似つかわしくない――それでいて、この森にあることに違和感の無い巨大な城が鎮座していた。薄暗い森を照らすように、一階の窓の内側から光が漏れている。だが、そこにある雰囲気は真逆のものだった。それも当然だろう。主を失った城に、生気などある筈が無いのだから。
「……」
 入口の扉に手を掛け、ゆっくりと開けた。唸りながら、重たい扉が動く。空気は寂びれども、建物自体は未だ衰えていない。その立派さを、かつて彼女が自慢げに語っていた。
 その景色は、数ヶ月ぶりな所為かどこか懐かしかった。城内各所に繋がる大広間では、天井に吊らされたシャンデリアだけが、かつてと同じように自己主張を続けていた。奥へ繋がる廊下の明かりには、既に火は灯されていない。その無常さがより一層、彼女が死んだ事実を刻み付けてくる。
「――お待ちしておりました、エミヤ様」
 不意に、遠くからそう声を掛けられた。一瞬身体が萎縮するものの、落ち着いて声の主の方を向く。薄暗い闇の混じったその先から音も無く歩いてくるその姿は、確かにこのアインツベルン城のメイドであるセラだった。記憶にあるものと同じ衣装を微かに揺らしながら歩いてくる。その手には、古びたトランクが抱えられていた。
「待ってたって……セラ、俺が来ることを知ってたのか?」
「ええ。お嬢様より言付かっておりましたので」
「……そっか。そういえばそうだよな」
 そもそも俺がこの城に訪れた理由はイリヤに言われたからである。ならば、彼女が知っているのも当然といえた。
「本来ならば――」いつものように表情を変えず彼女は言う。それでも、その変わらぬ辛辣さは何故かありがたかった。「――エミヤ様の世話をする義理など無いのですが、お嬢様の命とあれば仕方がありません。イリヤスフィール様の情けを受けられることを感謝しなさい」
「ああ、ありがとう」
「……それでは」
 そう言って、彼女は抱えていたトランクを俺に差し出した。こちらも手を出し、それを受け取る。疑問を浮かべながらセラの顔を見やれば、「開けなさい」とその表情が言っていた。素直に従ってとりあえず鞄を地面に置くと、錠を外して蓋を持ち上げる。果たして、その中にあったものは――
「――剣? それに、こっちのは……」
 赤き布。それは、どこか見覚えのある色だった。遠坂のパートナーだったあの弓兵が身に着けていたものと同じ、血のような深い赤。あいつの外套と似ているというだけで、何とも言えない複雑な思いが生まれる。
「聖骸布――その名が示す通り、聖人の死骸を包んだとされる布です。抗魔力の弱いエミヤ様でも、これを纏えば魅了のような外界からの魔術をそれなりに防げるでしょう。……よくもまあ、これ程の概念武装を隠匿していたものです」
 それを手に取り感慨深く眺める俺に、上からセラの説明が降り注がれる。その中に、一つ気になる事柄が含まれていた。
「隠匿……?」
「ええ。コレ等は元々、コトミネキレイが所有していたのですよ」
「――」
 ここでその男の名が出てきたことに、不覚にも一度、心臓が強く跳ねた。思わず彼女の顔を見上げてしまう。ちょうど彼女は、その口を再び動かすところだった。
「聖杯戦争が終わった直後、イリヤスフィール様と私達は、トオサカ様の要請を受け冬木の教会を調べました」
 言峰綺礼。教会。その単語に、一年も前のことが思い出される。……聖杯戦争。あの時、既にもういない彼等の前で、やり直しなんか望まないと彼等の願いを否定した。痛いと泣き叫ぶ彼等を救わなかった。俺が拾うべきものは、かつて過ぎ去ったものではなく、未だ来ていない何かなのだから。
 そうして感慨に耽っている間にも、セラの台詞は続く。
「そこにあった物は管理者であるトオサカ様が預かりましたが、お嬢様は何故か、幾つかの品をトオサカ様に伏せてこの城に持ち帰ったのです」
「でも、なんでイリヤは遠坂から隠してたんだ?」
「さあ。お嬢様は何も仰りませんでしたので。ただ……」
 呟きの途中で、幾許か彼女の口は音を紡ぐのを止めた。その反応を不思議に思い、続きを急かすように「ただ?」と訊き返す。だが、トランクの中を見ながら戸惑うようにセラの口から出てきた言葉は、まるで予想外のものだった。
「いえ、この聖骸布を発見した時、あまりにも哀しげな顔を――」
 ――哀しげな顔。この赤い布を見て、何故イリヤはそんな顔をしたのだろうか。だが、イリヤがそんな表情を浮かべた理由など、本人にしかわからない。そして、もうそれを知ることは出来る筈が無かった。今の彼女は切嗣と同じ墓の中で、静かに眠っているのだから。あの紅く綺麗な眼は二度と開かない。可愛らしい声を紡いだ口は二度と動かない。楽しそうに笑みを浮かべるイリヤを見ることは、もう出来ないのだ。
「……そっか」
 だから、むせ返りそうになる感情を押さえ、小さく返答する。
 そして、その感情を頑なに閉じ込めるように排除して、鞄の中身に眼を向け、それ等についてセラに問うていった。……そうしなければ、きっと何かが零れそうだったから。


 ――あの日、郊外の城に赴いてから、既に一週間が経っていた。
 セラは、一人であの城に残ると頑なに主張した。この城でただ朽ち果てていくだけ。前と同じようにそう言った彼女の言葉からは、何の感情も伝わってこない。哀しみも、寂しさも、全てどこかで遮られていた。
「前にも言ったでしょう。エミヤ様に同情される覚えはありませんよ」
 かつてと同じように彼女は眉を顰めて告げたのを覚えている。
「この土地は、貴方のような下賤な人間がいつまでもいて良い場所ではありません」
 そう言い放って、俺を追い出したセラは重たい城の扉を閉じたのだ。マナがある限り、半永久的に生きていくホムンクルス。彼女は、いつまで哀愁に浸るのだろうか。
「ねー士郎。遠坂さんから何か連絡あった?」
 と、記憶を掘り起こしている俺の耳に、誰かの呼ぶ声が届いてきた。
 俺がいるのは夕食後の居間であり、ここでそんな声を出すのは隣で旬を過ぎた蜜柑を食べている藤ねえしかいない。その顔を見ながら、問いに答える。
「いや、別に無いけど。なんでさ」
「えー、だって士郎、心配じゃないの? 外国よ外国、それも一人で」
「いや、まあそれはそうだけど。……あの遠坂だぞ? あいつがそれくらいでへこたれたら、俺の学園生活はもっと平和だった筈だって」
「確かにそうですね。姉さんのそんな姿はあまり想像出来ないです」
 藤ねえの隣でお茶を飲んでいた桜が、可笑しそうに微笑みながら同意する。そう言いつつも、彼女の脳裏ではその想像も出来ないような遠坂の姿が浮かんでいるに違いない。
 ……藤ねえや桜は、既にイリヤの死から立ち直っていた。彼女の葬式で誰よりも涙した二人。特別、イリヤと仲の良かった二人は、当初の落ち込みを経て、再び先を見るようになった。いや、彼女達は元々俺の何倍も強かったのだ。当然だろう。
「うん。そうだったそうだった。士郎、振り回されっぱなしだったもんねー」
 何が面白いのかクスクスと思い出し笑いをしながら、藤ねえは蜜柑の皮を綺麗に剥いている。それだけは、誰にも負けないくらい上手だった。
「でも、ほんとに電話くらいしてみたら。いくら遠坂さんだって、やっぱり慣れない土地に行けば心細いわよ」
「……」
 たまに見る真面目な顔で、そう告げる藤ねえ。
 先程は笑っていた桜も、やはり何だかんだいって気にしているらしい。少し俯きながら、心配そうな眼を見せた。それは当然だろう。今はもう共に過ごしていないとはいえ、彼女達は血の繋がった実の姉妹なのだ。
「……それでもあいつの方から連絡が来ないと、どこに掛ければいいのかもわからない。俺、電話番号知らないぞ」
「あー、そっか。……んー、じゃあしょうがないのかなあ……でも心配だよー、お姉ちゃん」
 悩みながらも、蜜柑を食べる手が止まらないのが藤ねえらしい。
「あ、大丈夫です藤村先生。住所だけは姉さんから教わりましたから。手紙になりますけど、此方から連絡は取れますよ」
 先程とは一転、得意そうな表情で胸を張る桜。男の前でその姿勢は少し遠慮して欲しい。
「それなら大丈夫ね。よし。じゃあ士郎、今度でいいからちゃんと手紙を書くのよー」
 そう納得すると、藤ねえは再びオレンジ色の山へと意識を戻し、三つめへの蜜柑を制覇しにいった。
 ――それは、本当に変わらない。いつもと何も変わらない日常だった。いや、変える必要など無いのだ。衛宮士郎は、いつもと変わらぬ会話を楽しみ、いつもと変わらぬ夜を過ごし――そして明日、旅立つのだ。余りにも長く、果ての無い終点を求めて。
 だからこそ、それを見るだけで、不覚にも止まりたくなる。今となってはいつもと全く代わらぬ団欒が、何よりも暖かかった。これ等の全てが、何よりも愛おしかったのだ。
 そうして時間になり、玄関へ立った二人は言う。いつもと同じ別れの言葉を。
「それじゃあ、また月曜にね士郎」
「おやすみなさい先輩。また今度です」
 その中に込められた再会の約束に揺らされながら、耐えるように答える。
「ああ、おやすみ。気をつけて帰れよ」
 二人の去ってゆく後ろ姿を、瞼の裏に刻み付ける。この寂しい家を、明るく染め上げた家族達。何よりも明るい姉と、大人しくも可愛らしい妹。何も言わずに出て行く自分を、彼女達はどう思うだろうか。それを考えるだけで、心が挫けそうになる。
 だが。それでも――
「俺は……」
 一人呟き、決意を固めるように踵を返す。自室に戻る間際、俺の頬に伝ったものはきっと、これから流すことの無い涙だったのだと思う。


 そうして何よりも青い空の下、俺は静かに屋敷の門を潜った。
 己の手元には一つ――家にあった古びたトランクが掴まれている。決して便利とは言えないそれ等の箱を、俺はあえて使用した。かつてそれを持って、切嗣は世界中を旅していた。港から船で旅立ち、数ヶ月して帰ってくる。その土産話を語る父はまるで夢を追う子供のようで、そんな切嗣の姿に俺は憧れのようなものを抱いていたのだ。あれから何年も経った今でも、それは全く変わっていない。衛宮士郎にとって衛宮切嗣は、いつまでも理想たる人間であり、その父の掲げた夢は何よりも眩しいものだった。
 だから、決意した。こうして帰路の無い道を進むことを決意した。入口の前で立ち止まって、目を瞑る。振り返るようなことはしない。これからの道に、そんな選択肢は無いのだから。
 かつて、この屋敷の縁側である一つの誓いを立てた。
“爺さんの夢は――”
 父の隣で、そう言った自分がいた。その言葉は、ただ自然と口に出たモノ。だがそれでも、それはきっと俺の何よりもの本心で、誰よりもの願いだったのだ。だからこそまた、心に折れることのない剣を突き立てて――衛宮士郎は、ここに再度誓う。
“――俺が、ちゃんと形にしてやっから”
 目指すは、誰もが笑える世界。その過程に、どれ程の苦労があろうが決して止まぬ、捨てぬ、諦めぬ。そう、誓おう。
 ふと、どこかから聞き慣れたバイクのエンジン音が届いてきた。彼女が事故を起こさないように祈りながら、その音を耳に焼き付け――眼をしっかりと見開いて俺は歩き出す。振り返らず、真っ直ぐに。昨日までの、あの暖かい日常を胸に刻みつけて、俺は何よりもキレイな夢を目指す。
 そうして、誰も殺せない鈍い剣で、俺はこれから救うのだ――己が眼に映る全てのモノを。


2/

 そうして、少年の戦いは始まった。
 いざ戦場へ。剣を作ることしか出来なかった彼は、その唯一の力を使える選択肢をただ自然と手に取った。いや、それを選んだのは当然だったのかもしれない。彼が憧れた正義の味方は己を救った魔術師であり、その魔術師であった父が理想を求めて歩んだ道が幾多の戦場だったのだから。義務からではない。ただ、彼のように在りたいと思ったのだ。
 そして彼は、衛宮切嗣と同じように理想と現実の狭間に悩まされることになる。全てを救うことは難しく、それでも多くを救おうとするには、何か犠牲が必要だった。故に、自分の身を切り捨てても拾えない命を救う為には、それ以外の何かを切り捨てる必要があったのだ。
 正義の味方に救えるのは、味方をした人間だけ。彼の理想像だった衛宮切嗣の言葉は、どう仕様も無いくらい事実だった。当然である。彼の父はその事実を知っていたからこそ、苦しみを抱いていたのだ。それでも心を鉄にし、衛宮切嗣は戦うしかなかった。在りえない平和を求めた聖人は、きっと何よりも愚かな人間だったのだろう。だからこそ、その事実を否定する為に彼は父の目指した願いを追ったのだ。たとえ理想とわかっていても、それを夢見た父の願いは、少年にとって何よりもキレイで憧れるものだったから。
 だが、その理想はやはり理想でしかなかったのだ。全ての人を救うことなど出来ない――。その為に赴いた戦場で、まず最初にその事実を突きつけられた。だから、彼は決断した。かつて衛宮切嗣がそれを選んだように。目に見える救いを拾う為にそれを妨げるものを殺すことを、衛宮士郎は決意した。それが、己が理想に反していると知りながらも――矛盾した彼は、それでも追い続けるしかなかったのだ。
 それはきっと、かつて衛宮切嗣が歩んだ道。それを知らぬ筈の衛宮士郎も、後を追うように彼と同じ道を歩むことになる。何よりも強く、弱い剣の心を、涙するように軋ませながら。


/The Hill with No Name

「――投影(トレース)開始(オン)
 その敵を前に決意するようにはっきりと、俺はその呪文を詠唱した。
 創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、構成された材質を複製し、制作に及ぶ技術を模倣し、成長に至る経験に共感し、蓄積された年月を再現し、あらゆる工程を凌駕し尽くし――ここに、幻想を結び剣と成す。瞬時に行われた八節の工程を踏まえ、俺の両手に陰陽の二刀が顕現する。その手に握られるは干将莫耶。かつての聖杯戦争であの騎士が使っていた夫婦剣。掌を握り締め、イメージと違わぬその感触を確かめる。
 そして、横から迫り来る外敵に剣戟を浴びせた。

 ――戦場で誰かを助ける為には、その為の力が必要である。
 だから、俺が最初に求めたのはそれだった。衛宮士郎が知り得る最強の剣は、かの騎士王が携えた剣。だが、衛宮士郎では彼女の剣を扱えないことはわかっていた。だからこそ、俺はあの二刀と、剣才の無い男が弛まぬ努力の果てに構築した錬鉄の剣術を模倣したのだ。あの弓兵が用いていた剣。聖杯戦争で最速の槍を凌いだ男の、ひたすらに鍛え上げられた剣技。悔しくもあの時、俺はその放たれる剣戟に見惚れてしまった。決して、何よりも強い訳ではない。何よりも速い訳ではない。しかし、その生まれもっての才覚でなく狂おしいまでの努力によって生まれた技こそ、剣を作ることしか出来ない俺が求めたものだった。
 一度だけでなく何度も何度も二刀の投影を繰り返し、限界を超えてもなお繰り返し、未熟な回路を鍛え続けた。その過程で双剣の名を知り、より効率的な使い方を知っていった。攻めるのではなく崩す。防ぐのではなく捌く。いつまでも終わりの無い鍛錬を弛まず続け、俺は力を蓄えていった。

「くっ――!」
 左手の剣が弾かれ、宙を舞いながら消滅する。右手一本で敵の攻撃を捌きながら、既に何度も行ったことを、素早く繰り返す。「投影(トレース)――」そして、紡がれる自己暗示。
 その隙に、それでも捌ききれなかった一撃が、俺の左腕に突き刺さった。だが、それを気にせず、無理矢理投影を続ける。
完了(オフ)っ……!」
 腕から芯に伝わる痛みを押し殺し、剣を振るい続ける。この左腕は、俺の体の中では何よりも硬く、何よりも痛みに強い。かつての酷使からいかれてしまった左手は、そんな痛みでは止まらないのだ。

 ――少し前の話だ。
 干将莫耶では、この敵に届かない。ある強敵と相対した時、瞬時にそれを悟った。だから再び、自身を超える幻想に手を伸ばしたのだ。
 剣製自体は不可能ではない。そう、元よりこの魔術回路はただそれだけに特化したもの。たとえその過程でこの神経が焼け切れようとも、剣製だけは完璧に行える。だが、衛宮士郎はただの人間であり、英雄達が担う武器など使いこなすことが出来ない。
 それでも、扱えないとわかっていながら、彼女の剣を投影した。全身の回路を奮わせ、血潮を滾らせ、あの幻想をここに成した。勝利すべき黄金の剣(カリバーン)。かつて彼女の夢に見た、王を選びし選定の剣。故に、衛宮士郎ではその剣は扱えない。その力を使うことは出来ない。だから、剣を無理矢理にでも開放するには一つ、何かを捨てなくてはならなかった。
 ――――それが、左腕だった。
 誰もいない仮住まいの一室で、自身の手を眺めたのを覚えている。左手の感覚は無く、黒く変色したその腕は丸ごと何かにごっそり持っていかれていた。神経が焼け切れたような痛みと、存在が消えてしまったような浮遊感。ずれた左腕は、壊れたように矛盾する感覚を共有していた。
 そうして、俺はその身を削りながらも、携える剣を鍛えていったのである。

 しまった、と言葉が浮かんだ時は既に遅かった。とんでもない衝撃の下、俺の身体は宙を舞い壁に激突する。体力の尽きかけている肉体では受身もろくに取れず、全身に倒れそうなくらいの電流が走る。
「がっ…………!!」
 それで血反吐のようなものを出しながら立ち上がる俺に対し、自我の無い自動人形は、主と共に躊躇も無く即座に攻め寄ってくる。
 もう抗う術は無い。片方の手はとうとうまともに動かなくなり、それとは正反対に敵の数は未だ複数残っている。彼女の剣を無理矢理解放したところで、全てを薙ぎ倒すことは不可能だ。その後、力尽きた俺は奴等に尽く凌礫されるのみ。そしてその結果、俺は死に至るだろう。
 ――それは、何よりも勝る恐怖だ。死が、ではない。このまま死ぬと誰も助けられないということが、だ。それは駄目だ。許せない。だってそうだろう。俺はまだあの誓いを叶えていない。そうだ。あの時もう一度、己に誓った願いを忘れる筈が無い。彼女の死を、あの時の思いを、俺が忘れる筈が無い。誰もが笑えるような世界を目指すと。白い少女の小さな身体を抱きしめながら、そう己に誓ったのだから……!
「――――――――――――――――!」
 声ならぬ叫び。それと共に、今まで使われてなかった撃鉄が音を立てて下りる。その数は二十七。錆び付いていた歯車は回り、闇を突破し限界まで俺の身体が稼動する。
 そしてその脳裏に、墓標のような剣が映り――

I am the bone of my sword(体は剣で出来ている).”

Steel is my body(血潮は鉄で), and fire is my blood(心は硝子).”

I have created over a thousand blades(幾たびの戦場を越えて不敗).”

Unknown to Death(ただの一度も敗走はなく、).

 Nor known to life(ただの一度も理解されない).”

Have withstood pain to create many weapons(彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う).”

Yet, tohse hands will never hold anything(故に、生涯に意味はなく).”

So as I pray, unlimited blade works(その体は、きっと剣で出来ていた).”

 ――知らない筈の呪文が、脳裏に浮かび上がった。
 心の奥底に眠っていた箱が、叫ぶように開かれる。今、ここに鐘は鳴った。内に秘められたその(ちから)は殻を食い破るように内側から身体を陵辱し、俺を中心としていた世界は現実より切り離され、名も無き剣の丘へと染まり返った。


 ――夢を見ている。
 それは彼女が亡くなった、白く切ない夢だ。
 その日は、雪が降っていた。そこで、イリヤは死んだ。大嫌いな冬の日に、大好きな雪を見ながら、切嗣と同じように彼女は死んだ。
 まだ冬に入りきっていないというのに、急激に下がった気温は冬木に雪を齎した。その寒い夜の中、どうしてもというイリヤの願いによって、縁側に座りながら見るからに弱っていた彼女と俺は静かに会話した。それは、今まで話したような何でもないことだったり、切嗣との思い出のことだったり。沢山の話を二人で寄り添いながらしたのだ。
「――でも、シロウはきっとここを出ていくわ。キリツグと同じように、みんなを置いて出ていく。だって――シロウはエミヤなんだから」
 その会話の中で、俺はイリヤにそう言われた。消え入りそうな瞳で断言するようにそう告げた少女。彼女はきっと、俺の奥深くまで理解していたのだろう。導くように彼女が多く語ったことからも、そう思えてくる。
 郊外の城へ行け、と言ったのも彼女だった。そこで聖骸布を用意したのも彼女だった。俺の知らぬところで、この優しい少女は、誰よりも衛宮士郎の行く末を案じていたのかも知れない。その時はまだ、彼女の示した言葉が何を意味していたのか理解出来ていなかったが、それでもイリヤの言葉に込められた思いは伝わってきた。
「そうね。シロウがキリツグと同じ道を辿るのは許せないけど……でも、しょうがないわ。頼りない弟を助けるのは、お姉ちゃんの仕事なんだもの――」
 その呟きは、堪らず泣きそうになるくらい暖かい笑み。
 そして暫くし、イリヤはその短い生涯を終えたのだ。かつて、月の下で死んだ実の父と同じように。雪の下で静かに瞼を閉じた彼女は、俺の腕の中で綺麗な涙を溢しながら、包むような笑みと共に逝ってしまった。
 ――何も、何も出来なかった。俺はただ無力で、ただ抱きしめることしか出来なかった。毎晩のように繰り返していた鍛錬は何の意味も無く。剣を作ることしか出来ない俺には、眼の前で弱っているイリヤを助ける術など持っていなかったのだ。だから、どうすることも出来ない状況に俺はただ悲観し、絶望し、そうしてもう一度あの誓いを立てたのだ。
 前に進むと決めた。俺に出来ることは、きっとそれだけだったのだ――


 ……瞼を開く。懐かしくも、どこか儚い景色を見ていた気がする。少し、気絶していたらしい。見ていた夢は、きっと短かったのだろう。正確な時刻はわからないが、意識が閉じてから、ほんの数分も経っていないようだった。そんな自分の無用心さに溜まらず舌を打ち――遅れて、その場に生きているモノが誰もいないことを思い出した。死骸は灰になり、そこには血の跡しか残っていない。両手には、先程まで剣の丘で握っていた剣がある。その刃は赤く、生きていたモノ達の血で濡れていた。
 誰もいない民家の壁を背に預け、呻くようによろけた身体を支える。俯きながら、休むように深く息を吐いた。体内の熱が徐々に外界に逃げていく。
 自分のしたことは、とうに理解していた。本能があれの理屈を教授する。固有結界。己の心象風景を展開する大禁呪。そして――俺に許されたたった一つの魔術。あの剣の丘が事実であると主張するように、身体の内で重なり合った剣がギシギシと音を立てて鳴いている。この身を超えた魔術行使は俺の神経を焼け切り、解放された世界が身体をつなぎ合わせるように修復を施す。全身に熱い痛みが走り、熱をもった皮膚が痙攣する。幾度も焼け付き生え変わった身体はその感覚に慣れている筈だが、今回の酷使は今までを遥かに超えるものだったようだった。
 それでも、羽織った外套に宥められたかのように、剣は暴れどもそこから突き破ろうとはしない。あの時、溢れる力が内側から皮膚を食い破ろうとするのを、赤い外套が抑えていた。この布を用意した彼女はきっと知っていたのだろう。俺がこうなることを。いずれこの布が必要になるということを。結局、いつまで経っても俺は誰かに守られてばかりだったのだ。
 下を向いたまま、目を閉じ続けて暫く身体を休ませる。未だ身体は痛みの信号を鳴らしている。静まるようにもう一度、深呼吸をする。肺から出て行く息と共に、先程までの陰湿な気分も飛び出ていった。落ち着いたところで、未だに剣を握り締めていることを思い出した。その格好が癖になっている自分に、ただ苦笑しながら顔を上げる。
 ――そして視線の先、窓に映る自身の姿に気付いた。気付いてしまった。
 髪からは全て色素が抜け、全身の肌は黒く焼け付いている。そして、返り血に濡れた赤き外套。陰陽の二刀を持ち、立ちつくすその姿は、まるで――
(ああ、そうか……)
 どう仕様も無い程、あの男にそっくりで――
(やっぱり、あいつは……)
 それはきっと認めたくないことなのに、何よりも自然に納得してしまった。……いや、本当はとっくに気が付いていたのかもしれない。かつてあの赤い弓兵を、何故あそこまで毛嫌いしていたのか。だが、今ならわかる。確かにそれは当然だろう。あいつが今の衛宮士郎の、エミヤシロウの未来ならば――あの時の自分が、あの男を許す筈など無い。何かを守る為に何かを殺してしまった。そんなエミヤシロウのなれの果てを、衛宮士郎だった自分が認める筈があろうか。
 だが、それがわかったところで、俺は今まで歩いてきた道をこれからも歩くしかないのだ。一を捨てて、ただ出来る限りの数を拾うのみ。元より俺はそれだけしか出来ない。それだけしか、出来なかった。敵を滅ぼす魔術も、人を癒す魔術も使えない。ただ剣を持ち、敵を斬る。ただそれだけの存在。身体が動く限り戦い、その果てにある人々の幸せを求めて駆けるだけだ。この身は剣を作るモノでなく、無限に剣が内包した世界を作るモノ。ならば真実に気が付いた今、この身が砕ける筈が無い。

 ――そう。この体は、硬い剣で出来ている。

 それが、やっとわかったのだから。


3/

 かつて、彼は家族を救えなかった。雪のように綺麗な少女を、その腕の中で失ったのだ。だからこそ、彼は決意したのだろう。
 才能の無かった彼は、ただ唯一持っていた力を痛めつけるように高めていった。何度も傷付き、何度も死に掛け、それでも何度も立ち上がり。内に眠っていた禁呪を悟り、自身を今まで以上に理解し、鉄を打つように己が剣を鍛え続けていったのだ。
 だというのに。
 何よりも硬くなった彼の目の前に映る光景は、自身が望んだものとはまるで逆だったのだ。
 ――それは、辺り一面に広がった死の世界だった。家という家は焼け爛れ、町は火の海と化している。地獄としか言いようのないその光景に、彼はただ呪うしかなかった。こんな光景を許す世界に。こんな光景をまた見せた世界に。そして、こんな光景を防ぐことが出来なかった自分に。
 その光景は、まるで衛宮士郎の始まりだった。彼の根底に写る始まりの世界と同じモノ。彼の心の中心。世界の中心。このような地獄に似た世界で、彼は生まれたのだ。貴き呪いを裡に植えつけられながら。痛い痛い。助けて助けて。周りから聞こえてくる獣のように叫ばれた声を彼は心の奥底で覚えている。
 だからこそ。二度と。あのような地獄はもう二度と起こらぬよう、幾多の戦場をたった一人で駆け抜けた彼は――それでも、まだ足りない。おまえの力では誰も救えない。理想には決して届かない、と。そう、断言されたのだ。
“だが、それでも救いたいのならば――”
 だからこそ彼は、その後に差し伸べられた手を握り返した。与えられる力の対価が自身の未来と知っていながら、それでも求めたのだ。迷いなど、とうに無かった。かつて共に戦った剣の少女が死の間際そうしたように、彼もまた自分の死後を誰かの為に捨て去ったのである。

「契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい」

 ――己が身を捨てて衆生を救う。
 英雄の、誕生である。


/Red on Red

 そうして自身が何か正確に理解した俺は、今まで以上に戦場を駆け抜けていき、今まで以上の力を得ていった。
 錆び付いていた二十七の撃鉄も全て起きた。酷使し鍛え上げていた魔術回路は、遂には複数の同時投影に耐え得るにまで。夫婦剣を扱う技術を高めその真意にまで手を届かせ、遂には必殺を得るにまで至った。
 ――――体は剣で出来ている。その呪文に支えられながら、傷付くことも構わずに争いの中に飛び込んでいく。そう。どこかで戦いがあると知れば、一心不乱に駆けつけた。仮住まいの家にすら帰ることも少なくなり、ただ自分の理想の為に世界中を回る。そして、俺の存在がほんの少しだけ世界に染み渡ってきた頃。――俺は、彼女と再会した。


「おかえりなさい――」
 無言で部屋に入ると、奥の暗闇から麗しい女の声が響いてきた。誰もいない筈の一室。だというのに、月の明かりが差し込まれる窓の許には、俺の知らない――だが、懐かしい女性の姿があった。無機質な内装への慰めのように置かれたテーブルの上に、バッグらしきものが置かれているのが薄ら見える。
「何……せっかく人が迎えたんだから、ただいまの一つくらい言えないの――衛宮くん?」
 目を凝らし見つめる俺の耳に届いたその言葉で、ようやく彼女の正体に気付く。同時に、皮肉げに紡がれたその声は無性にかつての情景を思い起こさせた。そう、一年間といえど彼女は自分の師であった。同じマスターとして、共にあの懐かしき聖杯戦争を駆け抜けた。
 ――遠坂凛。人影は、確かに彼女だった。窓から差し込む月明かりに照らされたその顔は、四年前よりもさらに綺麗で落ち着いたものになっている。壁に寄りかかるように立ち尽くしている彼女は、あの時とは違う落ち着いた服装でこちらを眺めていた。
 染み渡る郷愁の念に晒されながら、それでもゆっくりと足を進める。数歩進んだところで、淡い星月の夜光が俺の身体にも降り注いだ。
「――っ」
 そうして、ようやく彼女には俺の姿がはっきりと見えたのだろう。その反応も理解出来た。それでも、僅かに表情を変えただけの彼女を誉めるべきか。遠坂の眼に映る俺はきっと、彼女の記憶に深く刻まれている弓兵の姿と嫌という程似ているのだから。聡明な遠坂のことだ。俺があいつと同じということは、とうに気付いていた筈だ。それでも、遠坂は自身の眼で確かめるまで、その事実を肯定したくなかったのかもしれない。彼女は、優しかったから。
「……どうして、ここが?」
 足を止め一定の距離を保ったまま、今更のようにようやく彼女に問う。本当ならば、最初に問うべきことだったが、俺の心はこの予想だにしなかった再会で混沌としていた。
「ふん。ウチの情報網を舐めないで。神秘を隠匿する協会が、裏の戦争とはいえ、大っぴらに魔術を使う存在をチェックしないはずがないでしょ」
「協会には、所属していない筈なんだけどな」
 相変わらず直截な遠坂の言葉に、苦笑いを返しながら答える。
「フリーなんて、存在が知られたらなおさらチェックされるわよ。特にアンタみたいなのは」
「やっぱり、前回の所為か?」
「そ、アレでアンタ、協会のリストに載ったのよ。でも、士郎の特異性はまだばれてはいない筈よ。そもそもわたしがここに来たのだって、剣を使う魔術師って載っていたからなんだし。だから、今回もあまり期待はしていなかったんだけど…………待ってた甲斐、あったみたいね」
 俺だと当たって欲しくもあり、外れて欲しくもあった。沈んでいく語尾には、そんな意味が込められているような気がした。
「……」
「……」
 やがて訪れる沈黙。居た堪れない空気が、段々と締めあがっていく。声の無い世界には、自然の音しか響いていない。一度大きく風が吹き、窓ガラスが音を立てて震えた。
 そうして、無声の静寂を破るように再び彼女は言葉を紡いだ。
「……四年ぶり、っていうことになるのよね」
 過ぎ去った時を懐かしむように、俺達が交わらなかったその時を実感するような呟き。零れたように吐き出されたそれは、何よりも深く重く感じられる。
 ――四年。言葉にすればたったそれだけ。だけれども、それは現実が不変でないことを示すには十分の年月だった。今の俺達に纏わり付く空気には、もはやかつてのものではない。だがそれでも、苛立ちの篭もった遠坂の表情は、あの頃の彼女のままだった。自分に真っ直ぐに生きていた彼女は、今の俺に対し真っ直ぐな怒りを抱いている。
「ねえ、衛宮くん――」
 答えない俺を気にせず、遠坂はゆっくりと静かに言葉を続けていく。
「何故、とは訊かないわ。貴方が我慢出来ない人間っていうことはそれなりに理解していたつもりだから。でもね、今の衛宮くんはそれで幸せ? 本当に自分が笑えていると思ってるの?」
 衛宮士郎の心を穿つように、彼女はただ告げていく。だんたんと発せられる言葉は荒くなり、彼女は昔のように激昂していった。
 そうして数十分。その間に、遠坂から何度も何度も罵られた。冬木に残された家族達の話を聞かされ、止めろ、帰れ、いい加減にしろと彼女は叫んだ。おまえは未だに変わらぬ大馬鹿だ、と昔のように叱咤した。それでも、他人の為に怒る優しい彼女の期待に応える言葉など俺には無かったのだ。ただ拒むしか術は無い。
「……それでも」
 だから、出来ない、と。諦めることは出来ないと、その意を込めて、彼女の言葉を否定した。それがきっと彼女を傷つけると理解していながら、それを発したのだ。
「……俺は、進むしかないんだよ。遠坂」
 そうだ、やり直しなんか出来ない。そんなこと、ずっと前からわかっていたことだ。誰かの死によって築かれた己が道を、否定なんかしてはいけない。この道の果てにあるモノの為に、率先して人を殺した。犠牲となる誰かを切り捨てることで、ここまでやってきたのだ。そんな俺がこの道を引き返すなんて、許される筈が無いだろう。
「っ――」
 そうして出した答えを聞いて、彼女は小さく唇を噛み――本当に、本当に泣いてしまいそうな表情で、目を閉じたのだ。それから、静かに彼女は去っていった。もう、会うこともないでしょうね。それだけをただ言い残し、俺の部屋を出ていった。
 その別れで浮かんだ罅に気が付かぬまま、閉じたドアをただ見つめる。もう、それが俺以外の手で開かれることは無いだろう。そう思いながら、億劫な動作で安物のソファーに身を深く沈める。夜光の当たらぬ空間で、彼女と相対したこの僅かな時間を思い返す。それは、俺の心にきっと何かを刻み付けていったのだろう。そうして、混沌としたまま目を瞑る。その時、今まで何とも感じなかったこの一室がやけに閑静に感じられたのが、何故かいつまでも記憶に残った。


 そんな彼女との再会が、己に何を齎したか。それは、自分でもはっきりとわからない。
 だが、きっと心にあった剣は、今まで以上に硬くなっていったのであろう。故にその脆さにも気が付かないまま、俺は何かを屠り、走り続けていき――そして、俺はあの自分の始まりに――地獄のような光景に、再び邂逅したのだ。
 それが、自然による天災だったのか、誰かの手による人災だったのかはわからない。だが、今まさにこの場所が地獄と化していることは、紛れも無い事実であった。
 そこは、俺が暮らしている町だった。冬木よりも小さい、けれども平和な町。だけど、数ヶ月ぶりに帰ってきた俺の目に移った景色は、そんな言葉とは正反対の、何よりも赤い地獄だったのだ。全てが焼け崩れ、死の具現と言わんばかりの紅蓮は、十数年前の風景とまるで同じ。その規模は未だ小さいものの、それが全てを焼き尽くすのは時間の問題だった。辺りを大火に囲まれ逃げ場を失った人々は、迫り来る死にただ怯えることしか出来ない。
 そして俺も、ただその光景を前にしてどうすることも出来なかった。火を打ち消すような魔術も使えない。剣を作ることでは、その炎を遮ることですら不可能だ。
 だけどそれ以上に、絶望に浸ることなど許せなかった。許せる筈が無かった。
 だから、俺は願い、叫んだのだ。その先に誰かの笑顔が咲いているのならば、それはきっと間違いなんかじゃない――縋るような、そんな思いと共に。俺は初めて、運命を変える程の奇蹟(チカラ)をここに欲したのだ。それは自分の為などではなく、目の前に死が迫っている誰かの為。だからこそ、迷いなんて無い。その結果、自身に終わりの無い未来が降りかかろうとも、そこに迷いなんてある筈が無い。
 そして、心の底から獣のように叫んだ自分に世界は応え――俺は帰り道の無い、英雄への切符を手に取り、

「契約しよう――」

 その報酬として与えられた力で、俺は本来ならば助かる筈の無い命を救ったのである。
 そこに後悔なんてある筈が無かった。
 ありがとう、と――俺の腕の中で顔を綻ばせてそう言った少女がいた。その少女を抱きしめてそう言った彼女の姉がいた。欠けること無く助かった者達が皆、歓喜と共にそう感謝の言葉を述べたのだ。そんな彼等の言葉がどれ程、己の救いになったことか。
 だから。救った人達の笑顔を見ることが出来ただけで、ただそれだけで、死後を売り渡してまで選んだ道が間違いじゃないと、そう思えたのだ。だって、そうだろう。あの瞼に焼き付くような血よりも赤い地獄の中で、かつての自分では救える筈の無かった一を救えたのならば、その先も俺は今まで拾うことの出来なかった命を救えるに違いないのだから。果てにいつかは、全ての救いを拾えるようになるに違いないのだから。


4/

 だが、その二度目の生を迎えた後も、やることは何も変わらなかった。掲げた理想を守る為に理想に反す矛盾存在(エミヤシロウ)は、その後も何も変わらなかった。多くの人が笑えるのならば、死後の自由を捨ててまで力を手に取った自分は間違いなんかじゃない――その思いと共に誰かの血で自身を染めて。彼は迷いも無く、排除すべきと定めたものを率先して殺していったのだ。
 殺して救って殺して救って。今度こそ、きっと誰もが涙しない世界に辿り着くと祈り――男は、殺して救って殺して救った。誰かを屠る度に罅割れていく心には気が付こうともせず、それをただ繰り返す。その行為にもはや感慨などなく、痛む心を殺すことにすら慣れてしまった。その結果、彼は今まで以上の人を殺し、今まで以上の人に恨まれ、今まで以上の人を救い、今まで以上の人に疎まれた。返答は罵声。報酬は裏切り。感謝はすぐさま疑念に変わり、笑顔も軽蔑の眼差しへと染まっていく。味方にもただ良いように使われ、理解出来ないと切り捨てられた。
 何故殺す――何も言わず戦う彼に、いつか誰かがそう言った。だが、その問いに彼が答える術は無かった。そうであろう。誰かを救う為に誰かを殺す――矛盾しているその理由を言ったところで、理解出来る者などどこにいようか。
 だからこそ、罵られようがたった一人で彼は戦い続けた。黙して、ただただそうしなければならぬように。他に誰もいなくとも、孤独の胸に秘めた思いを忘れ去ることなど出来なかったのだ。
 かつて、誰も涙しない世界を望んだ彼の願いは、出来る限りの人を救うという理想に負けた。犠牲を自ら出すことによって、少しでも多くの命を拾っていった。それでも、望んだ願いから道を踏み外すことは彼にとって選べない選択だったのだ。全てを救えずとも、多くの人が救われていることは事実だったのだから。
 ――そう。自分の力では叶わぬ理想と悟ったところで、彼にその理想を追い続けることを止めることなど出来る筈が無い。それと共に彼自身に齎された死を以ってしても、決して諦めることは出来なかったのである。


/Asleep: With Still Hands

 ――衝撃と共に胸に穿たれた孔を見て、エミヤシロウがここで終わることを悟った。

 協会の手が届く土地だったからだろう。あの紛争から一日も経たない内に、魔術師達は俺の前に現れた。いや、きっと監視されていたのかもしれない。……いや、そんなことなど、とうにわかっていた。だが。それでも、俺は見過ごすことなど出来なかったのだ。たとえそれが魔術と何の関係も無い争いだったとしても――その結果、涙する人が生まれるのなら、俺は所構わず剣を手に取ろう。そう誓い、そしてそうしてきた。
 だが、それは神秘の隠匿を掲げる魔術協会にとっては、喜ぶべきことではなかったのだ。
「――エミヤシロウ。封印指定の貴方を、今から“保護”する」
 協会から派遣された魔術師達は、そう言った。
 封印指定。一月程前、この剣しか作れない俺がそんなものを授かった。全ての剣を内包するこの世界を彼等に知られたのは、きっと半年前の戦場でだろう。あの時、俺は場所を省みず固有結界を展開した。それは数分にも満たない間であったが、協会に知れるのも時間の問題だったのだ。あそこには、かつて英雄王が集めた宝具の贋作も突き刺さっている。神代の武具を完璧に再現されている剣の丘。遠坂がかつて言っていたように、俺はどこまでも複製者(フェイカー)なのだ。
 封印指定がその神秘を露出した場合、協会は総力を持って“保護”にかかる。特異な才能が教会の手によって消されぬように、ということらしい。少し前、封印指定について調べそう学んだ。そして、その保護をするべき時というのが、今だったのだろう。協会の魔術師達は、警告が終わるや否や遠慮無くその力を見せ付けてきた。
「――っ」
 その結果が、もう死に体の自分であり、今や保護を済ませようとしている彼等の姿だ。全身に力が入らず、大怪我を負った胸が痙攣している。だが、震えている理由はきっとそれだけじゃない。その予想され得る結末が、俺には途轍もなく怖かったのだ。痛みが恐ろしかった。死が恐ろしかった。だがそれでも、保護されここで止まることがそれ以上に恐ろしかった。耐えられなかった。未だあの理想に至れていないのに、ここで止められることなんて我慢できる筈があろうか。
 だから今、ここに生み出せる最高の幻想にありったけの魔力を込める。それは溢れんばかりに膨れ上がり、結果、終焉を齎す破壊を生み出すだろう。その対象は己。それを浴びる俺に訪れるものは、紛れも無く死である筈だ。だが、それは終わりではない。そうだ。この身が終わることなど、許せる理由がどこにある。確かに、破壊されんとしている剣のように、俺の身体はこれで消える。エミヤシロウはここで安らかに眠り、英霊エミヤとして世界の奴隷になるのだろう。だが、それでも良い。結果、父が夢見た理想に届くなら、喜んでその道を進もう。
 俺がなさんとしていることに気が付いた魔術師達が爆発を防ごうと迫るが、既に遅い。もう決壊は止まらない。臨界点を突破し、遂に幻想は破壊される。爆音と共に激しい痛みが訪れ、スローモーションのようにゆっくりと意識が薄らいでゆく。
 ――行き着く先。きっとそこは、かつて相見えた英雄達が存在する場所。その遥か高く位置する座に、俺はこれから赴くのだろう。そしてそこに至るまでの一瞬、いつかあった日の光景を幻視した。縁側で空を眺めながら、父と交わした最後の会話。あの時、自身の胸に去来した思いが、溢れるように込み上げてくる。
“ああ――安心した”
 俺の答えに、そう言って切嗣は他界した。本当に心の底から安心したように微笑みながら瞼を閉じた。その父の表情を、今でも覚えている。だからこそ、自分が切嗣に言った誓いを偽りにしないよう、今日まで走り抜けたのだ。
 そしてとうとう、この世界からエミヤシロウという男は消える。次に英霊として目覚めた時、誰もが笑える世界に至れていることをただただ願う。

 ああ――この身だけではあの遠い遠いユメには届かなかったが、きっと世界の抑止と化したその先には、いつか――いつか、きっと――


5/

 彼はたった一人で、来る日も来る日も戦って、そして苦しんでいた。誰にも知られることも無く、自分から言うことも無く、ただ一人で。ずっとずっとたった一つの未来を、いつ叶うかもわからないたった一つの未来を夢見て。
 だから、全てを救わんが為、助けるべき一ををその手で斬り殺した。理想を求めんが為、守るべき理想をその手で切り捨てたのだ。心の奥底で永遠に止まぬ涙を流しながら、心の丘に延々と剣の墓標を突き刺し続け。そうして、切り捨てたモノを全て背負い込んで――彼は、たった一人で戦い続けたのだ。
 誰にも理解されなかった。理解されようとも思わなかった。それでも自分が手を差し伸べたことで、一人でも多くの人が笑えるようになるならば、彼にとってそれはきっと不幸などではなかったのだ。
 そう。彼はかつて、ある理想を誰よりも何よりもただ己に誓った。
 決して止まぬと体に誓った。
 決して捨てぬと心に誓った。
 決して諦めぬと魂に誓った。
 故に、立ち止まることも、引き返すことも、やり直すこともしなかった。出来る筈がなかった。ただがむしゃらに前進し、誓いを果たすことだけを夢見た。その途中どれだけ傷付こうが、それでも救いを拾うことで齎される笑顔が、どう仕様も無い程キレイだったのだから。
 だが結局、自分一人の力では、その夢には辿り着けなかった。だから、彼はその巨なる力に身を預けたのだ。己では至れなかった理想への道を、その巨なる力に祈ったのだ。死後、本来赴く筈の道を捨て、彼は輪廻より外れる無色の力となった。英霊という、人在らざるモノへ昇華したのだ。
 ――――そして、彼はとうとう辿り着くことになる。
 自分の願いはそれを以ってしても叶うことがないという、余りに単純で、残酷な答えに。


/Shattered Like a Glass Heart

 かつて見たあの業火の景色を地獄と称すならば――今、俺が見ている景色は、何と名付ければ良いのだろうか。人という種が自身の終焉に否と唱えるのは当然だ。だが、人の滅びを避ける為に呼び出された俺が、こうして人を殺しているのは何故なのだろう。それも一度だけでなく、何度も何度も……何度もだ。
 呼び出されれば、目の前に映るものは常に破滅の世界。それも、誰の手によるものでもない人の自滅によって齎された光景だ。そして俺はただ、人間が残した不始末に対し、殺戮という名の処理を施すだけ。殺人機械と言わんばかりに、目の前の命を尽く奪っていくだけだった。結局、人の世を滅ぼす要因は、人そのものにしかなかったのだ。
 それでも、始めは耐えられた。それはかつてと変わらぬ行為であったが、それでもいつかはあの理想に手が届くのだと。だから、大勢の見えぬ命を救うため、目の前にある少数の命を滅ぼした。老若男女関わらず、全てを葬り去った。例え彼等に罪が無くとも、この両手で剣を振るい続けた。
 かつて生きた時代だけでなく過去未来全てに呼び出され、どこでも同じように殺して殺して殺して殺して、数え切れないくらいの人を殺して――そこでようやく気付いたのだ。守護者という存在は、目の前の景色にある人間を全て消し去るだけのモノということに。そして、この力を以ってしても、あの理想には届かないということに。
 だから、何からも離れた世界の中心でただ一人、泣き叫ぶように罅割れていったのは、仕方の無いことだったのだ。硝子の(こころ)が砕けるように、その自分の在り方が堪らないくらい愚かに思えてしまったのは、きっと仕方の無いことだったのだ。
「――俺は」
 もう、わからない。俺が何を目指していたのか、何を目指せばいいのか。
 あのヒトの、泣きそうな笑顔がキレイだったから憧れた。
 あのヒトの、誰かを助けたいという願いがキレイだったから憧れた。
 たとえ、この理想が自身の中より溢れ出たものでないとしても。それでも、憧れたから追い求めたのだ。自分の抱えるその矛盾から目を背け、刺さっていく棘に気が付かない振りをして、掲げた願いがただの戯言に過ぎないと悟る暇も無く。道を違うことも出来ず、その一生を終えるまでただひたすら。父のようにあんな笑顔が浮かべられたら、どれだけ良いか。その願いだけで、走り続けたのだ。
 でも、それが。
 そんなものが。
 そんな借り物の願いが――どうして、何よりも美しいと思えたのだろうか。
 愚かな願い、と誰かが言った。自身の裡から生まれたモノなど、何一つ無い。借り物の理想だけが詰まったがらんどうの自分。そんな己を持っていない衛宮士郎が、誰かを助けられる筈など無いではないか。そうだ。こんな歪んでいる自分が、どうして間違いなんかじゃなかったなんて言えよう。未練にも後悔にも気が付かず、衝動のようにあの夢を追い続けた、ただの偽善しか持たなかった自分が間違いでなかったなんて、言える理由など無い。
 もう思い出せない泡沫の日々。彼女と共に戦い、その果てに決意を固めた愚かな自分がいた。間違いだらけの選択をした浅はかな自分がいた。それ等はもう、変えることの出来ない道。だからこそ、だからこそ(オレ)は……オレは、その既に過ぎ去ってしまった自分自身を堪らない程、悔やみ憎み――全てより乖離した抑止の座で、時間も己すらも忘れ去りながら悟ったのだ。

 ――ただ、エミヤなんて存在は無かった方が良かった。

 それを、オレは悟ったのだ。


[Back] [SS] [Next]