何でもない休日を


「……う、ん」
 カーテンの隙間から漏れる陽光といつもとは違うベッドの質感によって、わたしは静かに目覚めを迎えた。掛け布団の感触が、何故かこそばゆい。全身の肌に擽ったさが纏わり付いている。それから逃げるように、自然と身体を動かしてしまう。
 そして、何とかその奇妙な感触の原因を突き止めようと、起き立ての意識をフル稼働させること数秒。わたしはようやくその違和感に気が付いた。
「あ、れ……裸?」
 そう、裸。下着も何も無い、まさに生まれたままの姿というヤツである。布団を捲って中を覗けば、最近ほんのちょっとだけ膨らんだ――それでも未だ豊かとは程遠いが――胸が丸見えだ。
「……あ、そっか……昨日は士郎の家に泊まったんだっけ」
 落ち着いて考え、答えに辿り着く。
 反対側に顔を向ければ、其処には確かに未だ眠りに付いている人影があった。視界に先に入ったのは、赤みがかった茶髪。そして少しずれた所には、年の割には少し子供っぽい顔が。わたしの学友でもあり、弟子でもあり、恋人でもある衛宮士郎の寝顔だ。
「……」
 それにしても、この状況には本当に慣れない。朝起きたら隣に他人がいるなんて、ここ十年一人で暮らしていた私にしてみれば、どうしようもない程不思議で違和感のある出来事なのである。
 だからなのだろうか、わたしはいつの間にか、その存在を確認するようにじっと士郎の身体を見つめていた。
「……やっぱコイツ、身体つきいいわよね」
 胸板なんて、結構がっしりしているし。
 わたしも筋トレをしているけど、やはり男と女は違う。コレが男の筋肉ってヤツなのかしら、などと感慨に耽りながら、わたしは自然と手を士郎の身体へ伸ばした。
「硬いわね――って、何しているのよわたし」
 ……寝起きはやはり思考力が低下する。少し恥ずかしさを感じながら、知らずの内に伸ばしていた手を引っ込めた。
 さて、と気を取り直して上半身を起こす。
 睡眠で固まった身体を伸ばながら、寝ぼけ眼で向かいの壁に掛けられた時計を見ると、時刻は既に午前六時半。士郎にしては寝坊と言ってもいいくらいの時間帯であり、わたしにしてみればいつもと変わらない起床時間である。
 だというのに、今日に限って妙に覚醒が早いのは、偏に士郎のお陰なのだろう。といっても、それは隣に恋人がいるからというようなロマンティックな理由ではなく、ただ単に目覚めたら裸で、しかも隣に人がいたという違和感による覚醒なんだけど。
 と、そんなことをしている内に、わたしの横からもぞもぞと人の動く気配が伝わってきた。
「……ん――」
「あ、起きた? おはよう、士郎」
「……ああ、おはよう遠坂。……なんだ、今日は早いんだな」
 少しだけ驚いたように、でもしっかりとした口調でそう言う士郎。わたしと違い、寝起きの良さは相変わらずだ。
「わたしはいつも通りなんだけど――」と、視線を時計の長針へ。「――ほら、もう三十三分」
 その言葉に、士郎は振り返って枕元の目覚まし時計を見る。追ってわたしも向こうに顔を向ければ、目覚ましの長針も確かに六と七の間に位置していた。
 だが、寝坊したのが久しぶりだったのか、士郎は「あれ、疲れてたのかな?」と不思議かつ不満そうな声を上げ――そしてようやく、今のわたし達のあられもない姿に気付き、瞬く間に熟れたトマトよりも真っ赤になった。
 何というか、目が覚めていたのは表面だけだったのかしら? 起きた時、隣にわたしがいる時点で気付かなきゃ変でしょうが。
「そそそ、そうか、それじゃあ寝坊も仕方が無いな、ああ、うん」
 そんなわたしの呆れも知らず、顔を赤くさせたままこくこくと食事中のセイバーのように頷き、士郎はベッド横に置かれた服を手に取る。
 その反応が、本当に笑みが出る程面白くて。だからこそ、「昨日の夜、体力使い過ぎたから、寝坊も仕方ないわよね」というわたしの台詞に、可笑しいくらい更に動揺してくれたのだ。
 ただ、言ったわたしもそれなりに恥ずかしかったのが、少し失敗だったかもしれない。


 士郎より遅れてシャワーを浴びてから居間へ入ると、テーブルの上にはミルクの入ったグラスが用意されていた。相変わらず気が利くというか用意がいいというか。
 座布団の上に腰を下ろしながら、そのコップに手を伸ばす。ありがたく頂戴し、一気に冷えた牛乳を咽喉へ通した。それで、最後まで残っていた眠気の芯が完璧に吹き飛んだ。
「遠坂、今日はどっちがいい?」
 そうしていると、キッチンから現れた士郎が声を掛けてきた。横を向けば、手を背に回しエプロンの紐を結んでいる姿が見える。使い込まれているエプロンを身に着ける手付きはやけにこなれていて、そこらの若妻より台所に立つ年季が入っていることが見てとれた。
「……あー、トーストでお願い。ジャムは林檎でいいわ」
「了解。じゃあ、ちょっと待ってろ」
 わたしの返答を聞き終えると、士郎はさっさとキッチンへ引っ込んでいった。
 ――そして、その背を何とはなしにじっと見つめてみる。
 自分じゃ否定しているけど、やっぱりアイツは根っからの家政婦なんだと思う。ほら、あの後ろ姿からは料理が楽しいってことが凄い読み取れるし。それに、あそこまでエプロンの似合う男子なんて世の中にそうそういないだろう。
 炊事洗濯からガラクタの修理なんてことまで出来るし、魔術師としてはへっぽこだけど固有結界という突出したモノをもってるし。今まで真面目にステータスの面で考えたことなんて無かったが……うん、もしかして士郎はそれなりに良い物件なんじゃないのだろうか?
「む…………」
 ――なんてことを、居間のテーブルに身体を任せながら、ぼんやりと考える。
 頭が食卓に寝そべったような体勢になった所為で、整えた筈の髪が少し広がってしまった。隣に置いた空のグラスには、その見っとも無い姿が映っている。
 どんな時でも余裕を持って優雅たれ、とはよく言ったものだ。こんな格好を死んだ父さんが見たら脱帽ものに違いない。別にわたしだって、その家訓を袖にするつもりなんて毛頭無いのだが、最近その優雅とあまり縁が無いのは確かに事実だ。
 とはいっても、普段から無縁という訳ではない。ただ、今みたいに士郎と二人っきりの時は、その仮面が崩れてしまうのだ。だけれども、それに何の不都合も感じることはない。わたし自身が昔の遠坂凛よりも、今の遠坂凛を好ましく思っているのだから。
「――行儀悪いぞ」
 と、くだらないことを考えている私に向かって、キッチンから戻ってきた士郎がそんなことを言ってきた。
 朝食の乗ったお盆を抱えながら、私の状態に少し不平そうに、それでいて可笑しそうな表情を浮かべて此方へと近づいてくる。
「んー、いい匂い」
 鼻腔に運ばれてきた朝食の香りが、空腹のわたしを否応無く刺激する。
 わたしは表情と態度で軽い謝罪の意を示しながら、「ほら」と眼前に差し出されたトレイを受け取った。
 テーブルに置かれた数枚の皿には、こんがり焼けたトーストと半熟のハムエッグ。それから、昨日の夕食で出たサラダが副えられていた。それがしっかりとアレンジされているのは、流石と言うべきなのだろうか。おまけに、メニューに合わせたように手作りドレッシングが和風からフレンチになっている。
 しかし朝の食事とはいえ、これだけじゃ少し物足りないような気がするけど……まあ、どうせ士郎のことだ。
「あ、先に食べてていいぞ」
 ほら、やっぱり。もう一品、果物でも用意するつもりなんだろう。
 またキッチンへ引っ込んでいく士郎の背中を眺めながら、その予想が正しかったことを悟る。その士郎らしい行動にくすみ笑いを返しながら、お言葉に甘え、食卓へと手を伸ばした。
 市販の林檎ジャムをビンから取り出し、多くもなく少なくもない適度な量をトーストの表面に塗りたくる。多量の糖分摂取は女の敵。贅肉が増えたところで、それは全て胸に回るという訳じゃ無いのだ……残念ながら。年の割りには豊かといえる胸を持つ実妹を脳裏に浮かべながら、わたしはそんなことを考える。アレはやっぱり、栄養が全部胸に回っているとしか説明が付けられないわよね。
 そうして世界の不平摂理を軽く恨みながら、いただきますとパンを一口。うん、美味しい。この手の食事はブレックファストとしては定番の簡素なメニューだけど、それでいて絶対に飽きることが無いのは何故なのだろうか。
「ちょっと前まで朝は食べてなったから……って訳じゃ無いか」
 自問しても答えは出ない。が、それは別段気にしない。大体そんなことを考えていたら、折角の食事も十分楽しめないでしょうに。
 と、そうこうしている内に、ようやく士郎が戻ってきた。両手で支えられたトレイの上には、彼自身の分の食事と新鮮そうなオレンジ。中くらいの皿に盛られた小さく切られているそれは、食後のデザートとしては全く申し分無い。
 それをテーブルに下ろし士郎はいつもの席に着くと、丁寧にもいただきますと手を合わせる。この辺りの律儀さは、藤村先生譲りだろう。
 ――っと、その名前で思い出した。
「そういえば、今日セイバーと藤村先生が行く道場ってどういう関係のトコ?」
「何でも雷画爺さんの知り合いがやってる道場らしいぞ。たまにはいつもと違う人の指導を受けさせたいということで、藤ねえのところにその話が来たんだとか。ああ見えても藤ねえ、剣道の腕前凄いからな」
 トーストを千切りつつ、答える士郎。
「うん、知ってる。学生時代は冬木の虎って慕われてたんでしょ?」
 決して恐れられていた訳じゃないというのが、あの人があの人たる所以なんだろうか。
 わたしの問いに肯定の頷きを返し、士郎は懐古の表情を醸し出しつつ、思い出話を喋り始める。
「昔、藤ねえが高校生の頃の話らしいんだけど――」
 と、その後わたしは士郎に藤村先生の昔話を聞かされていき、まあそんな感じで二人っきりの食卓は進んでいったのだ。

 朝食が済めば、次にするのは当然その片付けだ。
 わたしが食器を洗っている間、士郎は洗濯を済ます。とはいっても、私の服は洗わせないけど。
 昨日の夜も床を一緒にしておいて何を恥ずかしがるかといった感じだが、コレとソレは似て非なるものだから仕方が無い。女心は複雑なのだ。とはいえ、件の営みに使われたシーツなんかが洗われることを思うと、やっぱり同じようなものかもしれない。
「これで終わり……っと」
 ようやく最後の皿を拭き終わった。
 そうして、皿やコップを食器棚へと戻しながら、その返却場所に全く迷わない自分を、何だか不思議に思う。他人の家だというのに、まるで自分の家のように把握している。遠坂凛という人間が、衛宮家に生活レヴェルで染み付いている証拠だ。ほら、わたし専用のエプロンなんてものまで置かれているし。勝手知ったる衛宮の家、とでも言うべきか。まったく、こんなわたしの姿を一体誰が想像しただろう。
 何処かの世界にいるであろう大師父だって、自分の系譜の者がこんな通い妻みたいなことをしてるとは夢にも思うまい。自分でも正直そう思うのだ。聖杯戦争前のわたしだったら、こんなことになってるなんて考えもしなかったろう。
「……実際はそんな変わったつもりはないんだけど」
 自然と口から零れた呟き。
 でも、その言葉は、どうしようもないくらい真実なんじゃないかと思う。
 魔術師であることを辞めたつもりも無ければ、元々日常の自分を殺していたつもりも無い。魔術師は非日常の世界で生きる者だが、その非日常の中の日常をわたしはわたしらしく生きてきた。その日常部分のモノに、士郎やセイバーといった存在が組み込まれただけなのだ。
 魔術師としては変わりはしたが、“遠坂凛”としてはきっとそれ程変わっていない。
「ま、だからどうしたって感じよね」
 そんなことを考えつつ、残った食器を全て仕舞っていく。最近、こんなことを考えることが多くなってきたが、いくら考えたところで、わたしをわたしたらしめるモノが変わるわけじゃない。そんな意味の無い思考を捨て、さっさと片づけを終わらせる。
 そしてわたしは、未だ仕事中の士郎に声を掛けると、自分の用件を済ます為に客間へと戻っていった。


 昼食及びその片付けを済ませたわたし達は、縁側でお茶を飲みながら、それぞれゆったりと過ごしていた。
 個人的な用事はお昼前に終わらせ、後やることと言ったら今日の魔術の修行と夕飯の買い物くらい。だが、そんなことをするには、まだ時間的に早過ぎる時間帯だ。何処かに出掛けるという選択肢もあるにはあるが、先日のこともあって如何にも気分が乗らない。
 なんてことを考えていると、脳裏にあの時の出来事が甦ってきた。
 あれは先週の日曜日、士郎と二人で新都に買い物に行った時のことだ。
 珍しく――というか初めてだったような気がする――士郎の方から誘ったデートだったこともあって少々浮かれていたわたしは、上機嫌で士郎の腕を引っ張りながらフルールに駆け込み――そして、ベリーベリーベリーを抱えて嬉しそうに外に出ようとする蒔寺楓と、バッタリ遭遇してしまったのだ。
「……ほんと、厄介なヤツに見られたわ」
 別に、私と士郎の関係が発覚してしまったことが問題なのでは無い。そもそも三学年に上がってからは隠してなんかいなかったのだから。大っぴらに言い触らしていた訳はないけど、少なくとも普通に見ればわたし達が付き合っていることぐらいはわかる筈だ。
 しかし、である。だからといって、あんな姿を見せるつもりなんて更々無かった。大体、なんでこう都合の悪いタイミングで知り合いに遭っちゃうんだろうか。自分の呪いを恨めしく思う。というか蒔寺め、クレープもタイヤキも同じなんて言ってたんだから、アンタは安い江戸前屋のタイヤキを買えばいいでしょうが。
「――ふう」
 でもまあ……見られちゃったものは仕方が無い。既に読む気が失せていた本を閉じ、そう気持ちを切り換えると、気を抜く為に湯飲みに口を付ける。
 そして一息ついたところで、隣に座りながら熱心に英字新聞に目を通している士郎に話しかけた。
「で、士郎。どのくらいわかるようになってきた?」
 渡英まで、後およそ一年。
 時計塔でも通じるくらい流暢なイングリッシュを覚える為、士郎はこうして日夜、英語の勉学に励んでいる。基本的な日常用語から、専門的な魔術用語まで。協会で学べることを取り溢さぬよう、それ等を完璧に習得して貰わなければならない。時計塔という、折角の環境なんだから。そう、貰えるものならば、きちんと貰う。それがわたしの主義だ。
「ああ、しっかり読めば内容は理解出来るぞ。……なんとなく、といった程度だけど」
「でも、向こうに行ったら、全部英語よ英語。そもそも第一、そんなのんびりとなんて読んでられないんだから。それじゃあ、一つの書を読むのにどれだけ時間が掛かると思ってるのよ?」
「……それはわかってる。だからこうして勉強してるんだろ」
 む、と少し不満そうな顔で反論する士郎。
「まあ、士郎は英語の筋が悪いって訳じゃないんだし、一年間みっちりやれば大丈夫でしょ」
 そう、藤村先生が英語教師なことも関係あるのか、士郎の英語の成績は別に悪くはない。そもそも、コイツの詠唱は英語だし。
 そうして、士郎の邪魔をしないように会話を切り上げ、二冊目の本に手を付けた。

 ――それから、三十分。
 新しい本を読み始めたものの、今度は目が疲れてきたのか、頭に段々と眠気が回ってきた。それなりに規則正しい生活を送っているわたしにしては珍しいことだ。堪らず自然と、欠伸が出てしまう。
「ん、疲れたのか、遠坂?」
 隣でお茶を飲んでいる士郎が、わたしの様子に気が付き声を掛けてくる。今は英文からは目を離し、休憩に入っていた。
「うん、ちょっと疲れてるのかも。ほら、誰かさんが夜遅くまで頑張るから――」
 そこで、からかう様にニヤリ、と一言。
 それから、士郎の顔が真っ赤になるのは早かった。噴き出しそうになる口内の茶を何とか飲み込み、すぐさま口を金魚のようにパクパク開閉しながら、声にならない声を出す。朝と全く変わらないような反応に、ついつい面白おかしく苦笑してしまう。
「ま、それは冗談だけど、疲れてるっていうのは本当」
 という訳で、横に置いてあったタオルケットを手に取る。本当は掛ける物だけど……ま、これでいっか。
「って、此処で寝るのか? 疲れてるなら、ベッドで寝た方がいいだろ」
 その言葉には答えない。だって、「士郎の隣の方が気持ちよく寝られそうじゃない?」なんて台詞、わたしが言える筈が無いだろう。黙々とタオルケットを縁側に敷いて、仮眠の準備をする。日向に置いてあった所為か、ほんわかとした手触りとなっていた。これなら、中々気持ち良さそうだ。
「それじゃあ、晩御飯の買い物まで少し眠るから」
「ああ、わかった」
 何を言っても無駄と理解したのか、士郎はそれ以上口に出さず、再び英字新聞に目を向ける。
 それに、ありがと、と心の中で感謝を述べる。
「お礼、っていうのもなんか変だけど…………その分、今日の夕食は期待してなさい、士郎」
 そう、今日の夕食はわたしの番なのだ。朝昼は士郎に任せっきりだったから、気合を入れて作ろう。密かに練習していた和食をお披露目してもいいかもしれない。
「ああ。それじゃあ、期待して待ってる」
 今はのん気に答えている彼だが、数時間後もそんな顔はしてられまい。絶妙な具合に焼き上がった魚を見て驚き悔しがる士郎の姿を想像しながら、タオルケットに寝転がる。
「ん、んー……」
 太陽の熱を吸収したタオルケットの温もりに包まれながら、恍惚の声を上げる。
 ――ああ、今日もいい天気だ。爛々と太陽が輝く青空を薄目で眺めながら、そんなことを思う。
 後一年もすれば、こんなのんびりとした生活は去っていくのだろう。でも、だからこそ――今日のような景色は、いつまでもいつまでも、ずっと覚えておきたいのだ。
 微風が肌を擽り、横になった身体は春の温もりを感じる。
 触れるか触れないかといった距離で、新聞を読み耽っている士郎の存在をほんのりと感じながら、わたしは眠気に従いそっと目を閉じた。


[SS]