その日は、朝から雨が降っていた。
 空一面を蔽った雨雲は太陽の光を遮り、街中の空気は日頃より冷え、それでいてじめじめとしている。これも、梅雨がまだ明けきっていない所為だろう。道を歩く人間は皆、浮かない表情で歩いていた。
 そして、円蔵山の中腹に位置する山寺――柳洞寺。其処へ続く階段を登っている人物もその一人だった。
 黒を基調とする落ち着いた服装をしたその女性は、まだ三十前といったばかりだろうか。コンビニエンスストアで買ったような小さなビニール傘を差しながら、浮かないというよりもむしろ機嫌が悪いといった様子で気怠そうに歩いていた。
「まったく、何でこういう日に限って雨が降るのよ」
 微かに湿った黒髪が頬に貼りつく。纏わりつくような湿気は、髪の長い彼女にとってかなり不快なものだった。加えて、終わりが無いとでもいうかのように延々と続いている石段は、彼女の気分を更に悪くさせた。
「ああ、もう。鬱陶しいっ……!」
 丁寧に髪を払いながらも、思わず愚痴を零してしまう。しかし、その思いに反するかの如く、雨は無情にも降り止むことはない。何百とある階段を登ると共に、疲れに比例して陰鬱な気分になっていく。
 だが実際のところ、彼女の心中を狂わせる原因はそんなことではなかった。今こうしてある場所を訪れている、その意味。そして、そんなことで心が惑わされている自分。それ等を考えれば考える程、彼女の心境は螺旋よりも複雑に渦巻いていく。
「ほんと……」
 沸々と湧き上がる苛立ちを押さえ込むかのように、右手に持つ傘のグリップを強く握る。
「……恨むわよ、士郎」
 そして、その女性――遠坂凛は、何とも言えないような声でそう呟いた。


墓参


 ――衛宮士郎が死んだ。
 その知らせが凛の下に届いたのは、今から三日前のことであった。
 時計塔から依頼された仕事を終え、一週間ぶりに帰ってきたロンドンの住まい。その自宅の留守番電話に残された間桐桜からの伝言で、彼女はそれを知った。何十件も入った桜の泣き声は聞くに堪えない程の悲哀に満ち、聞く者全ての心を抉るようなものだった。
 すぐさま時計塔に一報を入れ仕事の暇を取った凛は、疲れた身体に鞭打ってロンドンを発った。そして、何十時間もかけて冬木に辿り着いた凛が見たものは、今まで以上に沈み塞ぎ込んだ妹の姿。
 いつか士郎は帰ってくる。その唯一の願いすら打ち砕かれた桜は、ただひたすら泣くことだけしか出来なかった。
 それは、士郎の姉代わりでもあった藤村大河も同じである。天性ともいえる持ち前の明るさもまるでなく、ただ仏壇の前で泣き崩れていた。凛は彼女が泣いているのを今まで見たことがない。それだけ大河にとって、士郎が占めていた位置は重要だったのだ。
 それでも何とか詳しい話を聞きだしたところ、衛宮士郎が死んだのは実際には二週間程前のことだったらしい。
 東ヨーロッパの片田舎で起こった争い。それに参加していた士郎は、結果として戦死――正確には爆死した。死体は殆ど原型を留めない程に何十もの肉片になり、何とか顔面が確認出来る状態でなかったならば、それが士郎と判断出来なかったくらいである。遺体は現地で処理され、幾つかの遺留品と共に、士郎は骨となって帰ってきたのだ。
 だが、真実とは常に残酷なものである。
 冬木に帰った次の日、凛は時計塔へと電話した。ロンドンを発つ前、彼女はあることを依頼していたのだ。
 電話口から流れてくる声は、まこと綺麗なクイーンズ・イングリッシュ。その相手は、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト――凛が現在組んでいる仕事のパートナーである。
「あ、ルヴィア? わたしよ。仕事の方はどう?」
「ええ、リン。貴女がいない所為で、ワタクシはここ三日、休む暇もありません」
 そういう彼女の言葉は正しい。事実、ルヴィアは丸三日寝ていなかった。マンツーマンで組む筈の仕事を、一人でこなしているのだ。それも当たり前であろう。
「仕方が無いでしょ。急な用件だったんだから」
「他の魔術師の墓参りをしに行くから、暫く休む――なんて言われて、何処の誰が納得しますか! 大体、協会側が定めた期日まで後二十日しかないのですよ!」
「わかってるわよ、ルヴィア。少なくとも一週間以内には帰れるから。それよりそっちを発つ前に頼んでいたこと、どうだった?」
 有無を言わせないような剣幕のルヴィアに対し、いつもの凛もなら素直に謝るだろうが、今の彼女にとってそれは何よりも重大なことだった。無理矢理話を切り、頼んでいた内容を訊ねる。
 それを何処となく理解したのか、ルヴィアも詳しい追及はせず、思考を入れ替え凛の問いに答えた。
「ええ、やはりアレは『こちら側』の争いでしたわ。時計塔に報告書が提出されていました」
「やっぱり……それで?」
 再び、凛が訊き返す。
 彼女は、ええ、と軽く相槌を打ち、少し間を空ける。
 そしてゆっくりと静かに、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは口を開いた。
「簡潔に結論から申しますと――シロウ・エミヤは協会の手によって殺されています」
 ルヴィアの言ったことは、凛の予想通りであった。
 衛宮士郎の死は、その東ヨーロッパでの争いが直接的な原因ではなかった。そもそもその場所では、二つの争いが行われていた。国内における複数民族の紛争が一つ。そしてもう一つは、ある死徒が起こした吸血事件である。
 聖堂教会のある組織と死徒二十七祖の一角が崩れ落ち、その祖の統率を受けていた吸血鬼達は、統率を失った。今回の争いも、そんな死徒の一匹が起こした事件だったのだ。そして衛宮士郎は、その吸血鬼を滅ぼす為に、その村へとやって来た。
 そこまでは良かった。幾ら相手が死徒であろうが、その吸血鬼は生前ただの一般人。運よく食屍鬼になり、死徒となっただけである。魔術も超常能力も使えないそれが人間より優れていたのは、ただ己の身体能力のみ。同じ人外の異端に属する魔術師――それも、幾度となく戦闘を重ねてきた士郎にとっては、その殲滅が簡単とはいかなくとも、無理難題なことではない。
 しかし、問題はその後であった。士郎が吸血鬼を倒した直後、そう、まさに直後である。そこで、表の紛争が始まったのだ。それも、何の関係も無い、ある一軒の村を巻き込んで。
 そして、士郎はその住民達を守る為、その争いを止めようとしたのだ。
 だが、協会はそれを許さなかった。元より協会が存在する意味はただ一つ。神秘の隠匿。それだけである。例え誰が死のうが、何が滅びようが、魔術の存在が隠し通せればそれで良い。故に、衛宮士郎が行ったことは、協会の意に反するもの。魔術を用いて表の争いに介入した彼は、協会の要員に処分されたのだ。
「――と申しましても、リン。これは明らかにこのエミヤという魔術師に非があります。この資料が示す限り、以前から彼は所構わず魔術を使っておりますから。魔術師の風上にも置けませんわ。フリーとはいえ、協会のリストに載る訳ですね」
 いえ、むしろフリーだからこそ載ったのでしょうか。更に続けてルヴィアは言う。
 確かにそうだろう。凛の知っている衛宮士郎は魔術師でなく魔術使いだった。彼にしてみれば、魔術など己が特技の一つに過ぎない。
「……そう、もういいわ。ありがと、ルヴィア。この礼は必ずするから」
「あら、そうですか。それでは此方にお帰りになったら、色々と追求させて貰いますので。魔術師の基本は等価交換、エーデルフェルトに借りを作ったことを後悔しなさい、リン」
 最後にそう言い残し、ルヴィアは電話を切った。
 未だ受話器を抱える凛の耳に、不通の電子音が定期的に鳴り響く。
 ――その真相に対し、驚きは当然あった。だが、やはり、という思いがあったのも事実だった。
 そう遠くないいつか、士郎が死ぬ。凛はそれを知っていた。衛宮士郎がアーチャーだったと、そしてこれからアーチャーになるのだと気付いた瞬間、心のどこかで理解してしまったのだ。
 凛が士郎と最後に会った時、彼はもう昔の彼ではなかった。いつかの弓兵と同じ、赤みを帯びていた頭髪は全て色素が抜け落ち、肌は黒く変色していた。確かにまだ、髪型も違う。服装も違う。口調も違う。全く同じ訳では無い。だが、そのくすんだ瞳だけは、かつてのパートナーと余りに同じだったのだ。
 だから、疑念は確信に変わり、確信は予感に変わる。
 衛宮士郎は死ぬ。あの赤い弓兵と同じように、戦場で死に、守護者になるのだ、と。それはまさにこの上ない程、確信めいた予感だった。
 そして、とうとうそれは事実となった。
 握り締めたままの電話機を下ろす。
 もう一度、頭の中で繰り返した。

 ――衛宮士郎は、死んだのだ。


 山門まで辿り着いた凛は、雨の中、境内にじっと立っている人影に気付いた。
 柳洞寺の僧侶姿をしているその男は、凛の記憶にある一人の人物と一致する。その格好の上、当時とは異なる剃髪されたその頭は、彼が親の跡を継ぎ仏門に入ったことを示していた。
 一人山門を見つめているその男は、凛の姿を確認すると石段の方へゆっくりと近づいてくる。
「案外に遅かったな」
「雨なんだから仕方が無いでしょう」
 山門を潜りながら、凛は返す。
「ふん。まあいい。……久しぶりだな、高校卒業以来か」
「ええ、柳洞君。久しぶりね」
 柳洞一成。高校時代、凛が認めた数少ない友人である。もっとも、一成本人はそう思ってはいなかったが。
 凛の聞くところによると、士郎の葬式を執り行ったのは一成だったらしい。一成は、柳洞寺の若き住職として、衛宮士郎の友人として、彼に経を読んだのだ。
「それで、どうしたのかしら? わざわざわたしを待つなんて、貴方らしくもない」
「ああ、藤村先生から電話があってな。後で貴様が来るから墓まで案内してあげてくれ、ということだ」
「そう……。でも、待っててもらって悪いんだけど、遠慮しとく。前に行ったことがあるから大丈夫よ」
「だが、それはまだ高校の時分だろう」
 そう一成は答えるも、凛は首を縦に振らなかった。
「そんなに急ぐことでもないし、別に迷ったっていいわ。それに……お墓までは、一人で行きたいから」
「……そうか」
 凛の言葉に対し、少し遅れてそう呟いた一成は、墓の場所を教えると静かに寺の中へと戻っていった。
 かつては互いに憎まれ口を叩く間柄であったが、十年の時はそれらを全て追いやっていた。それでも、今回再会した理由が士郎の死でなければ、これとはまた違った邂逅もあったろう。
 境内から離れながらそう考える凛の脳裏に、あの懐かしい怒声が甦る。
 聖杯戦争でそれぞれ皆、失ったものもあった。それは、家族であり、友であり、パートナーであった。その穴は決して小さくはなかったけれど、それでもあの時だけは、本当に純粋に、魔術師としてでなく一人の学生として遠坂凛は楽しめた。
 そんな高校最後の年。そこには、士郎がいた。桜がいた。イリヤがいた。大河がいた。綾子も、一成もいた。
 自分が魔術師である以上、そんな生活が仮初めのものということはわかっていた。二度と味わえないこともわかっていた。だからこそ、遠坂凛は今でも憶えている。あの懐かしき頃を。懐かしき思い出を。
 そんな、久しぶりの再会。こんな状況でなければ、一成の怒声も聞けたのだろう。そんな思いが凛を揺する。
 それでも一度も振り返らず、墓地のある柳洞寺の裏へと向かっていった。
 脇道を抜けると、其処には彼女が思っていたより多くの墓があった。見渡す限りとは言えないものの、辺り一面に数えきれない程の墓石が鎮座している。
 昔からこんなにあっただろうか。そのような疑問が凛の胸中に浮かぶも、そこまで詳しくは憶えていない。目的の方向へ歩きながら昔の記憶を掘り起こしていると、そもそも墓を訪れる記憶が殆ど無かったことに気が付いた。
 凛にとって、墓参りという行為は久しいものだった。九年前のロンドンに旅立つ前日に、遠坂の墓に行ったのがその最後である。教会横の墓地、其処の十字架を前にして、彼女は師でもあった父に、遠坂の魔術師として時計塔に赴くことを述べたのだ。
 そして誓った。辿り着くと。第二魔法に、果てはその先にある根源に。だが、未だ凛は魔法にも、その第一歩である宝石剣にも届いていない。考えれば考える程、ことが思うようにいかない苛立ちが増し、凛は知らず唇を噛んだ。
 その痛みで我に返る。気が付けば、苦渋に満ちた表情のまま墓地の入り口に立ち止まっていた。強く噛みすぎたことを軽く恨みながら、凛は目的の墓へと向かった。
 ふと違和感を感じ、空を見上げる。いつの間にか、雨は既に降り止んでいた。ビニール傘越しに見える雲はまだ空全体を蔽っているものの、その色は幾許か黒く濁っている程度だ。
「……どうせなら、もう少し早く止んで欲しかったんだけど」
 もう意味を為さない傘を閉じながらそう愚痴を漏らす凛だが、雨が上がったことに対する不満は無い。傘の水を掃いながら、目的の墓へと進んでいく。
 そうして二、三分程歩き、ようやく其処に辿り着いた。
 その墓石の表面には『衛宮家代々之墓』と、そう大きく刻まれている。左右に位置する墓と比べると、衛宮の墓は大分綺麗だった。そう思った凛だが、それは当然である。そもそもこれが出来たのはまだ二十年前程度のことなのだ。凛の半生より長い時間であるが、何代もの人間が入っている他の墓は百年以上も昔に形作られている。『代々』と記されているにも関わらずたった二代の人間しか入っていない衛宮家のものと比べるのは、十分痴がましい話だろう。
 凛は墓石の横を見る。其処にはたった三人の名前しか彫られていない。そう、この墓にはたったそれだけの骨しか入っていないのだ。暫く無言で其処に刻まれた名を眺める。
 衛宮切嗣。全ての始まり。衛宮士郎に尊き呪いを遺した男。この男がいなければ、衛宮士郎が生まれることも、そして死ぬこともなかっただろう。
 行方の知れなくなった士郎を探していた当時、凛は捜索の一環として、衛宮切嗣という男について調べた。協会の資料に記されていた切嗣は、士郎の理想とは正反対の男だった。目的を達する為には、的確に相手の弱味をつき、手段を選ばない。それはまさに魔術師の鏡だった。全ては己が目的の為。フリーだというのに協会に多く資料が残っていたのは、偏にその冷酷さのおかげだろう。
 だが、そんな魔術師であった筈の彼が、一般人と同じように骨となって墓の中に眠っている。そのことは、凛にしてみれば可笑しな話だった。魔術師である以上、そうそう死体の残る死に方は出来ない。事実、彼女の父親だって土の下には眠っていない。あの十字架は形だけの墓だ。
 だというのに、衛宮切嗣は墓の下にいる。
 士郎については理解出来よう。彼は何処まで行っても魔術師でなく、魔術使いだった。そんな男が、墓に入るのは自然とは言えないが、不自然とも言い切れない。だが、衛宮士郎と全く違う、正反対な人間である衛宮切嗣が、同じく骨となって此処に眠っている。
 でも、と凛は思う。
 士郎が昔語った衛宮切嗣の姿。あれが、本当の彼だったのならば。それは、まさしく衛宮士郎の親といえる姿だったのではないのか。
 血の繋がりも無い。その在り方も違う。でも、己を殺してまで、理想を目指したその姿は――
「……知らない人間のことを考えても仕方無いか」
 思考を断ち切る。どうも今日は、思考が飛び飛びになるようであった。余計なことを考えず、本来の目的である墓参りを済まそうと、凛は墓石と向き合う。が、その前にもう一人、挨拶をすべき人物がいた。因みに、今度は凛の知っている相手である。
 名前の彫られている面をもう一度覗く。其処に書かれている名は三つ。衛宮切嗣。士郎。そして、その間には。
「久しぶりね――イリヤ」
 イリヤスフィール、と。そう、あの白い少女の名前が刻まれていた。
「大体、十年ぶりってところかしら」
 最初、凛の口から出てきた言葉は、そんなありきたりなものだった。
 イリヤの墓参りには、たった一度だけしか訪れていない。いや、実際それは墓参りではない。イリヤが骨となって衛宮家の墓に入る際、そこに立ち会っただけである。だから、この邂逅も十年ぶりなのだ。
 ――イリヤスフィールが死んだのは、正確には九年前の晩秋。街路樹に茂った紅葉は枯れ落ち、刻一刻と冬の寒さが迫っていた季節であった。その頃のイリヤはろくに布団から起き上がることも出来ず、今までのような活発な姿はまるで見る影も無かった。彼女は聖杯戦争の為だけに用意された存在。ならば、それが終われば世を去るのも道理なのか。
 それは誰にもわからない。だが、それが当然というかの如く世界は無情だった。
 ある日の夜、イリヤは衛宮の屋敷で、士郎と凛に「士郎と二人っきりにして……」とそう言った。
 彼女はきっと、今夜が最後ということを悟っていたのだろう。そう告げたイリヤの命は、誰がどう見ても長くなかった。重病人のように痩せこけている訳ではない。だが、生気というものが全く感じられない程、彼女の身体は弱っていた。
 イリヤがその時、士郎と何を話したのか。その場を去った凛は結局、知ることが出来ていない。
 士郎と二人きりにして。静かにそう頼むイリヤの顔は、自分でなく誰かを哀しむものだった。
 思えば、彼女は士郎の行く末に気付いていたのだろう。イリヤは士郎を好いていた。そんな彼女が士郎に何を遺したのか。もしかしたら、彼が理想を追いかけるのを止めたのかもしれない。またや、頑張ってと応援したのかもしれない。それは二人以外、誰もわからない。だが結果として、士郎はアーチャーと同じ道を辿った。
 あの時の士郎の顔を、凛は今でもはっきりと憶えている。
「……イリヤが死んだ」
 縁側で、既に事切れたイリヤの身体を抱きながら、そう呟く士郎。
 目の前で己の家族が死んでいく。それがわかっているのに、自分はどうすることも出来ない。誰かを助ける為の手段として魔術を学んだ士郎にとって、それはどれ程の痛みだったか。
 その表情は凛が今まで見たことの無い、家族の死への哀しみと、何も出来ない自分への怒りと、それ以外の何かが混同したものだった。
 その、『何か』。当時の凛は、それに気付かなかった。だが、今ならわかる。あの時の衛宮士郎は、誓ったのだ。二度目の家族の死と共に、かつて誓った理想を再び。誰よりも何よりも、不甲斐ない自分自身に誓ったのだろう。
「……」
 本当に今日は落ち着きが無い。士郎の死によって、今までの鬱憤が溢れかえろうとしているのだろうか。
 凛は再び思考を断ち切る。そして、今度こそと思いながら墓を見やり、それに向かって喋りかけた。
「貴方も久しぶりね、士郎」
 当然は返事は無い。そのことが今更に凛の感情を憤らせるも、答えが無いのは当たり前のことだ。そのまま一人で言葉を続ける。
「悪いけど、今日は花供物もお墓を洗うのもなし。ほら、その辺りは藤村先生と桜がやってくれてあるでしょ」
 その言葉通り、何種かの花が両側の瓶に供えられている。雨に晒された所為か、水が満杯になっているものの、花自体はこの一日二日で用意されたものであることが見てとれた。
「礼儀も作法もあったもんじゃないけど、いいわよね?」
 そう言い放ち、凛は持ってきていたビニール袋に手を入れる。其処から取り出したのは、この場に来る前に買っておいた線香だ。
 が、それは誰がどう見ても濡れに濡れている。見れば、袋には雨水が溜まっていた。
「……考え事してたとはいえ、普通気付くでしょ」
 つい自分に対してぼやいてしまう。
 加えて、雨によって墓も全てずぶ濡れになっていた。どうしたものかと思案する。だが、置き場が窪んでいるおかげか、幸運にも香炉自体は雨水に晒されていなかった。無駄にならなかったことだけには感謝し、用意してあった線香の袋を開ける。そして、何本も束に纏められた線香から、供える為の数本を抜き取った。
 蝋燭も無くて悪いわねと呟きながら、凛は懐から百円ライターを取り出す。そして、直接線香に火を点けた。
 ところが雨水で濡れた所為なのか、一瞬線香独特の香りがするも、すぐさま風によって霧散してしまう。どうやら点火しなかったらしい。もう一度ライターの火を当てるも、一向にして煙の上がる気配はない。
 それでも一瞬、先端に火が点ったが、瞬く間にそれも消えてしまった。
「そこまで湿気てはいないと思うんだけど……まあ、匂いなしでも我慢しなさい」
 諦め、墓前に火の消えた線香を置き、スカートが濡れないよう注意しながら、膝を曲げ座る。
 そして、両手を合わせながら、凛は祈るようにそっと目を瞑った。
「…………」
 だが、これは死者への悼みではない。どれだけ彼の冥福を祈ろうが、彼の未来は、地獄でもなければ天国ですらもない。輪廻の枠から、世界の枠から外れ、死後どうあろうが守護者にしかならない彼に、弔いなど無用だ。
 だから、そう。これはただの追想である。彼女が振り返るは過去。凛の意識は、かつての時間に埋没していく。
 始まりは聖杯戦争。赤い弓兵。イリヤの死。冬木との別れ。新たな出会い。十年間の記憶を走馬灯の如く思い巡らす。
 そして最後に思い出すのは、六年前。彼女が衛宮士郎と再会し、別れた――忌々しき六年前。


 高校時代の友人。一時の弟子。かつての戦友。衛宮士郎を表す言葉は、考えれば幾つも浮かぶ。だが、凛が結局最後に思い浮かぶのは――正義の味方。まるでふざけたようなそんな言葉だった。
 高校を卒業し、凛はロンドンへ、そして士郎は何処かへ行った。
 凛も、桜も、大河も、誰も予想していなかった突然の出奔。この行為のきっかけがイリヤの死だったことは、想像に難くない。その時の誓いの為に、士郎は冬木を飛び出した。ロンドンに行かないかという凛の誘いを断った時、「まだ、どうするべきかわからないから」と、そう断った彼の胸中では、既に固い決意がなされていたのだ。
 それから、四年。凛はとうとう士郎と再会した。
 時計塔での修行の傍ら、士郎の足跡を探し、見つけては辿り、追い続けた。そして、漸く士郎を捕まえたのだ。
 それは、たった数十分の相対だった。その短い時間で何度言い争ったのか。凛の口から何度も罵倒が飛んだ。だが、友人。師弟。彼等の関係は既に変わってしまっている。凛がどれ程何を言おうとも、その言葉は士郎の心を穿つだけ。それを変えることは出来なかった。
 かつてのパートナーと同じ顔で、同じ声で、同じ瞳で、ただ「進むしかない」と、士郎は言った。そう、彼等の言葉は違えども、其処に宿る意味は同じ。進むべき理想もただ同じだった。
 言葉を交わす度に、そのパートナーを凛は思い出す。
 彼は自身が認めずとも、確かに英雄だった。
 一を捨てて九を救う。その行為は、間違いではない。全てを救えないのならば、出来る限り多くの人を救おうと、そう考えることは間違いではない筈だ。
 しかし、彼は認めなかった。認めることなど出来なかった。その男が掲げた理想は、自らを捨ててでも絶対に拾うことの出来ない一すらも自らの手に取るものだったのだから。
 全てを救うことなど、決して出来ない。そう知っていながら、彼はその茨の道を歩んだ。自らが棘に刺されようとも、道を逸れることなく真っ直ぐに進んだ。その道の最後に、何よりも綺麗な花が咲いていることを信じて。
 だから、殺した。多くの戦場で、守るべき者を殺した。自分を襲う者を殺した。助けを求める者を殺した。己を裏切る者を殺した。理想に反して、多くの人を殺して殺して殺し尽くした。全てはただ、反した理想を守る為に。そして彼は、その何千倍もの人を救ったのだ。
 だが、男が辿り着いた場所は、美しき理想郷などではなく、沢山の剣が突き刺さる荒廃した暗き丘。結局のところ、彼の浴びた茨は助けるべき人達からの棘であり、彼の終着点は自身の墓場だった。
 それが、十年前の聖杯戦争で見た赤い弓兵の記憶。時が経った今でも忘れたことはない。こうして目を瞑れば、あの時流れてきた映像がそのまま、凛の脳裏に浮かび上がってくる。来る日も来る日も戦場に行き、来る日も来る日も戦って。そしてある時、どうしようもない程無残な災害を前に、彼は唱えた。

“契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい”

 世界との契約。それは、人としての終わり。外れた無への片道切符。死してなお己の理想を求めたその男は、決して停止することのない列車に乗ったのだ。
 士郎が本当にアーチャーと同じ末路を辿ったのか、凛にはわからない。
 ただ、戦場での死。それが士郎の最後を物語っていた。戦って戦って、裏切られても戦って、遂に行き着いた先は英霊の座。彼も最期に其処へ辿り着いたのだ。衛宮士郎が至った死は、彼自身の終わりでなく、ただの始まりに過ぎなかったのだろう。
「……俺は、進むしかないんだよ。遠坂」
 その再会で、そう言った士郎。
 きっと、彼の心は何よりも堅く堅い硝子で出来ていたのだ。一度壊れれば二度と直らない。故に、その硝子が砕けないように、衛宮士郎はその道を歩くことしか選べなかった。
 だから、気付いた。

 ああ、自分ではもう――。

 気付いてしまった。


 記憶の底に潜っていたのは、どれ程の時間だったろうか。凛は静かに眼を開けた。
 其処に再び見えるのは、『衛宮』の文字。それが無性に、凛の眼に憎らしく映る。
「…………」
 この柳洞寺の池で、衛宮士郎とセイバーは別れた。もし彼女がこの世界に残っていたら、士郎の最期も違ったのだろうか。ふと自問する。そのような仮定に意味などない。だが、凛は考えずにはいられなかった。
 遠坂凛では衛宮士郎を止められない。六年前に、彼女はそれを知ってしまった。彼を止めることが出来るのは、きっとあの蒼く美しい少女だけ。彼と同じ、自己を捨ててまで他を守ろうとした少女だけ。士郎が愛した、あの少女だけなのだ。だから、六年前の決別以来、凛は士郎を追いかけることを止めた。決して認めた訳ではない。ただ悟ってしまったのだ。衛宮士郎はもう引き返すことは出来ないと。
 いや、実際にはそうでなかったかもしれない。凛が全てをかけて引き止めれば、引き返すことだってあったろう。しかし、凛には遠坂の悲願を捨て去ることなど出来なかったし、士郎も立ち止まることはあっても、引き返すことは出来なかった。
「――ねえ、士郎。わたしは何が何でも貴方を止めるべきだったのかしら」
 だからだろうか。知らず、凛は口からそう漏らした。
「六年前以来、わたしは士郎を追いかけるのを止めたわ」
 だが、それが正しかったのか、凛にはわからなかった。冬木に戻って桜達に会う度に、わからなくなっていったのだ。表面上は変わらない。それでも時折陰る彼女達の表情が、全てを語っていた。
「桜も藤村先生も、士郎がいつか帰ってくることを信じて、今日まで頑張ってきたわ。でも貴方は帰ってこなかった。結局衛宮の家に届いたのは、士郎が死んだっていう知らせだけ……!」
 一度溢れ出した感情は、もう止まらなかった。溜まりに溜まった複雑な思いが、凛の口から飛び出ていく。誰もいない墓地に、彼女の声だけが静かに響く。
 これではまるで昔の自分だ。心の何処かでそう思うも、この激情は堰を切ったかのように勢い良く漏れていった。
「そりゃあ、あの二人だっていつかは立ち直るでしょうね」
 でも、と凛は続ける。
「一度開いた穴は二度と塞がらない。そんなこと、士郎だってわかっていたでしょう!?」
 衛宮士郎は、イリヤを失った。そして、間桐桜は、藤村大河は、遠坂凛は、イリヤも士郎も失った。誰かを失えば、周りの心は欠ける。そんなことは、誰だって知っている。ただ士郎には、知っていても引き返せないものがあったのだ。
「……あー、何言ってんだろ」
 心中に溜まったしこりを吐き出し、辺りに静寂が戻った。
 凛だって、自分では止められないとわかっていた。士郎だって、自身が止まらないこともわかっていた。ならば、凛が士郎を責めるのも、自分を責めるのもただの欺瞞だ。凛はそれを自覚している。だから、それでも激情をぶつけるこの行為も何なのかわかっていた。
「……ちょっと後悔してるのかもね、わたしは」
 そう、彼女はいつも後手だった。
 衛宮士郎が冬木から出たのを知ったのも。衛宮士郎がアーチャーだということを知ったのも。衛宮士郎が戦場で死んだのを知ったのも。全て、それらが起こってから。
「でも、わたしがこんなに悔やむのは、それもこれも全部士郎がバカな所為よ」
 そう言って、彼女は上着に手を入れる。
「まったく、こんなもの大事に取って置かなくてもいいでしょうが……」
 彼女が取り出したもの。それは、いつかの赤い宝石。十年前の聖杯戦争で士郎の手に渡り、今こうして凛の下に戻ってきた。士郎が死ぬまで身に着けていた宝石。何の魔力もない、何の意味もないというのに、士郎はこれを持ち続けたのだ。アーチャーだって持っていた。ならば、士郎が所持し続けるのも当然の筈。だがそれでも、凛はそのことに感謝する。
「父さんだけじゃなくて、アンタの形見にもなっちゃったわね、これ」
 士郎を思う。
 きっと今頃、いつかの何処かで剣を振るっているのだろう。自らの意思も無く、ただただ世界の奴隷として何かを殺しているのだろう。
 これが、衛宮士郎の求めた正義の味方だったのか。
 いや、衛宮士郎には、それしか無かったのだ。己の信じた理想に裏切られ、それでもただひたすら理想を追うことしか出来なかった衛宮士郎が、最後に縋ったのが世界。例え抑止の一つになろうとも、其処にはきっと自分の求めた夢がある。その結果が、赤い弓兵だった。かつて見た彼の記憶。それはきっと、衛宮士郎が辿った道。そしてこれから辿る道。
 痺れてきた足に力を込め、凛はゆっくりと立ち上がる。
「ここに来るのも、今日が最後よ。過ぎた過去を悔やむ程、弱くはないつもりだから」
 そう、この墓参は訣別なのだ。衛宮士郎との、赤い弓兵との、弱い自分との訣別。
 それらを忘れるつもりも無い。捨て去るつもりも無い。しかし何よりも、それらを理由に己が道を変えるつもりも毛頭無かった。
 いつかの、父の墓での誓いを思い出す。辿り着く。その言葉に偽りは無い。
 士郎は理想を諦めなかった。理想を違えることになろうとも、決して諦めなかった。それが正しいとは、凛は思わない。だが、その思いだけは、間違いである筈がない。
 ――ならば、自分も貫こう。アーチャーに、士郎に負けぬよう、自分も一度決めた道を往こう。
 これは誓いだ。衛宮士郎が十年前、再び誓ったように、遠坂凛もここに再度誓う。
 理想を追い続けることが間違いだなんて言わせない。努力しているものが報われないなんて認めない。彼が、彼等が、間違いじゃなかったって、間違っていなかったんだって――それを、確かめてみせよう。
 右手の宝石を、きつく握り締める。
「……そろそろ帰るわ。明日中にロンドンに着かないと、ルヴィアの奴がうるさいのよね」
 風が吹き、雲が靡く。僅かな隙間から、眩い陽光が降り注いでくる。このままいけば、帰りはいい天気になりそうだ。晴れてきた空を見上げながら凛は思う。今、自身の心に飛び交うものは何か、それは凛にはわからない。だが、これだけは言える。今の自分は、胸を張って別れを告げられる。
 最後にもう一度、墓石を見下ろし、凛はゆっくりと口を開く。

「――じゃあね、士郎。十年前のわたしに会ったら、優しくしなさいよ」

 そう言って踵を返し、彼女は来た道を戻っていく。
 そして墓前からは、湿った筈の線香からほんの微かに煙が立ち昇っていた。


[SS]