歪んだ楽園


 他人として、自分に優しさをくれた実の姉。
 家族として、自分に憎しみをくれた義理の兄。
 もし一方しか選べないのだとしたら――あなたは、どちらの手を取りますか……?


 先輩と姉さんが付き合い始めたのは、おそらく聖杯戦争がきっかけだろう。わたしが隠れるように屋敷に閉じ篭っている間に、聖杯戦争は終わってしまった。兄さんの話によると、最後の幕を閉じたのが先輩達らしい。その二人の活躍によって、兄さんの命は救われたのだそうだ。
「ふん、まさか衛宮なんかに助けられるなんてね」
 病院の個室でそんな風に言う兄さんは、いつもと変わらないように見えたが、聖杯戦争が終わってからというものまるで昔のように真っ直ぐに捻くれていた。一度だけお見舞いに来た先輩も、中学の頃に戻ったみたいだ、なんて言ったくらいだ。
 兄さんの心境に何があったのかはわからない。死にかけたことが関係しているのかもしれないし、あのお爺さまが死んだことが関係しているのかもしれない。それは兄さん本人しかわからないことだ。
 そして変わったといえば、先輩や姉さんも変わった。
 先輩は、今まで見たことの無いような顔で笑うようになった。姉さんもそうだ。わたしの前で、いつものような『優等生』ではなく、先輩が言う『あくま』振りを発揮するようになった。それは決してわたしが知ることのない、遠坂凛の姿だった。
 そう。聖杯戦争の終わりをきっかけに、わたしの周りは大きく変わったのだ。
 兄さんとなんでもない会話をし、土日は姉さんを加えた夕食の席を同じにする。
 だけど、それは間桐桜の生活が変化しただけだ。
 だから、この後。姉さんが『姉』になることがあっても、わたしは何も変わらない。変わることなど、出来ない。
 何故ならば――わたしが間桐桜になった時から、そんなことは許されていないのだから。


 初めて兄さんと会ったのは、十一年前。わたしがまだ小学校に上がる前の頃だった。
 遠坂の家から間桐へと連れられたわたしは、その屋敷の玄関で初めて対面した。といっても会話など無く、兄さんはつまらなそうにわたしを見て、わたしはただ姉さんのリボンを片手に下を向いているだけだった。
 その頃から間桐の後継者としての誇りを持っていた兄さんは、外から入ってきたわたしのことが気に入らなかったのだろう。食事の席でも、廊下ですれ違う時でも、兄さんとの会話など殆どなかった。
 ……それが変わったのはいつからだったろうか。何故だかわからなかったが、兄さんはわたしに対して徐々に優しくなった。表面上は何も変わってはいなかったが、前と違ってわたしの存在を認めてくれていた。兄さんは、わたしの存在を哀れみながらも、わたしの『兄』でいてくれたのだ。
 でも、わたしは兄さんに対して、ただただ俯くことしか出来なかった。兄さんのことが嫌いだった訳でも無い。恐ろしかった訳でも無い。それでも、直視することなんて絶対に出来なかった。
 だって仕方無いだろう。本当は兄さんの居場所を奪っているわたしが、どうして堂々と顔を上げられようか……。
 そして、そのひび割れた生活が音を立てて崩れたのが三年前だった。
 兄さんは、あの穴倉を発見し、生まれたままの姿で部屋の中央に蹲っているわたしに気が付いた。お爺さまとお父さん、その二人によって体に間桐の魔術を刻まれていたわたし。
 その姿を見た時の兄さんの顔は今でも憶えている。今まで見ていたものがまるで夢だったかのような、今までの人生がまるで幻だったかのような、そんな絶望が浮かんだ顔。
 その日から、兄さんの世界は、崩壊を始めたのだろう。
 その結果、わたしは兄さんに犯されたのだ。
 兄さんは、今まで見たこともないような歪んだ顔で、何度もわたしを罵倒し蔑んだ。わたしがどれだけ抵抗しても、決して手を止めることはなかった。
 初めての相手は好きな人と――なんて、決してありえない夢を見ていた所為だったのだろうか。身体は既に蟲に貪られていた筈なのに、何故か無性にありもしない痛みを感じた。地下室の魔術の訓練(拷問)とはまるで違う恐怖の波が襲い掛かってきた。
 なんだ。何も持っていないわたしだったけれど、まだ心は残っていたのか。
 そして、その残っていた心は初めて、兄さんを恐れ、憎んだ。

「何で、何でお前が。お前なんかが……!」

 だっていうのに、その言葉で力が抜けた。……そうだ。わたしは奪ったのだ。兄さんの居場所を奪ってしまったのだ。あれ程兄さんが求めていた居場所を、汚いわたしが獲ってしまったのだ。
 ああ……。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、兄さん。

「――じゃあ、お前は今から僕のものだ」

 そうして、わたしは犯され、蹂躙されていった。
 でも、仕方が無い。これは、兄さんのことをどこか心の奥底でそっと哀れんでしまった、そんなわたしの所為なのだから。


 ……でも、今でもわからないことが一つ有る。
 あれから数ヶ月前まで、わたしは何度も犯された。その日から何度も何度も、兄さんはこの穢れた体を陵辱したのだ。
 そう。汚れていると知っている筈なのに、それでもわたしに触れる。何も知らない訳でもなく、お爺さまのようなモノでもなく、真っ当な人間である筈なのに。兄さんは、わたしと喋り、わたしに触れたのだ。
 そしてそのことに、わたしがどれだけ救われたか……。
 知っていますか、兄さん。
 わたしは、あなたが嫌いです。憎いです。
 それでも、あなたが生きていてくれて、嬉しかったです。


 姉さんからその言葉を聞いた時、わたしは信じられなかった。
 あの人は、いつものように眩いばかりの自信たっぷりな顔でこう言ったのだ。
「ねえ、桜。貴女、遠坂の家に戻らない?」
「――え?」

 “……どうして?”

「マキリの老人はギルガメッシュに殺されたんだし、それに慎二も魔術回路を得た。なら、間桐は慎二が継ぐべきでしょう。桜が当主にならなくちゃいけない理由なんて無いわ」

 “……どうして?”

「慎二にだって文句は言わせない。士郎だって別に桜が魔術師だって気にしないだろうし」
「でも……」
「ね? だから、桜。一緒に暮らしましょう」

 “……どうしてっ!? どうして姉さんは――。”

 だから、この時わたしは理解したのだ。
 ああ、姉さんは知らないのだろう。わたしが兄さんに何をされたのかも、わたしが兄さんをどんな風に思っているのかも。そして、わたしがどれだけ汚れていて、どれだけ苦しんでいたのかも。何一つ、知らないのだ。
 だってそれを知らなければ、今更姉さんがわたしを遠坂の屋敷に戻すなんて言う筈が無い。今までわたしを助けようともしてくれなかったのに、全てが終わってからこんなことを言う筈が無い。先輩まで獲っていった姉さんが、わたしから『間桐桜』すら奪おうとする筈が無い。
 ……でも。どうしてわたしは、喜びも感じているのだろう。
 そう思った瞬間、気付いた。思い出した。
 それは、昔わたしが望んだことではなかったか。まだ心が遠坂桜だった頃に、抱いた思いじゃなかったのか。

 ――いつか、姉さんがここから助け出してくれる。

 かつて見た幻想(ユメ)。子供の頃からずっと待ち望んだその光景が、今現実となってわたしの目の前にあるのだ。
 例えそれが今となっては残酷なことだとしても、わたしが望んでいたことなのだから。歓喜しないことなど、どうしてあるのだろう。
 汚れているわたしが、先輩の隣に立つことなんてありえない。今更姉さんの妹を名乗ることなんてありえない。ならばせめて、出来るだけ近くにいたい。そう思うのも仕方が無いことなのだ。
 ……姉さんや先輩とずっと一緒にいる。
 きっとその生活はまるで楽園のように幸せで……そして、間桐桜は決して遠坂桜に戻れない。
 幾ら姉さんと暮らそうとも、汚いわたしのことを一番知っているのは、きっと兄さんだけなのだから。
 いずれそのことが気付いたとしても、何でも持っている姉さんには、わたしから何もかも奪っていった姉さんには、決して理解することなど出来ないのだから。

 そうしてわたしは返事をする。
「……はいっ、姉さん」
 そして……よろしくお願いします、遠坂先輩(姉さん)


 ……。
 知っていますか、兄さん。
 わたしは、あなたが嫌いです。憎いです。
 それでも、あなたは――間桐慎二は、わたしの兄です。


 もし一方しか選べないのだとしたら――わたしは、兄の手を取り、姉の傍で生きる。


[SS]